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<谷村新司(7月の番組パーソナリティ)>
USEN創業50周年おめでとうございます。谷村新司です。
谷村が12歳、中学1年生の時にスタートしたUSEN。その頃、僕も音楽を創ることに目覚め、音楽と共に今日まで生きてきましたが、日本全国に音楽を届けてくれるUSENさんという会社がいてくれて本当によかったと改めて思います。
「ひとりでも多くの方に歌を聴いてもらいたい、届けたい」というアーティストの想いと「いい歌であれば、有名だろうと無名だろうと応援して音楽を届けていく」というUSENさんのポリシー。
この初心を忘れずに、これからもお互いに頑張っていきましょう(笑顔)
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<つんく♂(8月の番組パーソナリティ)>
USEN様、創業50周年おめでとうございます。
僕にとって有線放送というのはとても縁が深く、洋楽邦楽含めて僕の頭の中にメモリーされている音楽のたくさんはUSENで記憶したものが多いのです。
思えば小学生の頃から父親の働く市場では、常にUSENが流れていました。曜日や時間によって洋楽と邦楽が切り替わるのですが、当時の世相が反映されたものが僕の頭の中にどんどん入っていきました。なので、実はいまだに歌手名や曲のタイトルがわからないものがたくさんあります。それから22歳の時にプロデビューし、今度はUSENの放送所にシャ乱Qの売り込み電話をたくさんし、気がつけば「シングルベッド」、「ズルい女」が大ヒット。どちらの曲もUSENから火が点いたと言っても過言ではないでしょう。
そして、第28、29回全日本有線放送大賞を2年連続で受賞。
そして、また数年経って今度はプロデュースするモーニング娘。が新人賞受賞と、たくさんの御縁をいただいてきました。
―歌は世に連れ、世は歌に連れ― とは本当によく言ったもので、USENがあったから僕もたくさんのヒット作品に巡り合えたのだと思っています。この先もどうか世の中にたくさんの愛という音楽を届けるメディアであってください。僕も負けないような音楽をたくさん生みだしていく所存です!
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<ベッキー(9月の番組パーソナリティ)>
USEN創業50周年おめでとうございます。ベッキーです。
USENと言えば、街中やお店に音楽を流しているということで、とっても身近な存在です。「私の曲もこんなところで!」ということもよくあり、本当にいつもお世話になっています。
今回の番組では、私自身もこれまでに楽しんできたヒット曲を紹介できるということでとっても楽しみにしています!
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<北島三郎>
USEN創業50周年、本当におめでとうございます。私も、北島三郎になって50年目を迎えることとなりました。「USENと一緒に歩いてきた。」という感じも致します。
USENと言えば、何と言っても皆様方からのリクエストです。皆様からのご注文によって、私たちの歌を聴いていただけるという、私たちにとって最高に幸せな場所がUSENです。これからも宜しくお願いいたします。
簡単に50年と言いますが、その間に私たちの歌の世界も随分変わりました。世の中と同じように変わりましたが、私は日本の歌、『演歌』を一筋にやってきました。USENにとっても50年という月日は、大変なものだったろうと思います。心から「おめでとうございます。」と同時に、「お世話になってありがとうございます。」と申し上げたいです。
USENは「なくてはならないもの」です。故に50年続いていると思います。特に私たち歌い手にとって、大勢の皆様からリクエストをいただいて、自分の歌を愛していただけるという形態は、素晴らしいものだと思います。
これからも、もっともっと続けて欲しいし、あり続けて欲しいと思います。
歌い手にとっても、大変な励みになりますので、私ばかりでなく、歌の道を歩むすべての人が、「USENさん、ありがとう。」の気持ち、感謝で一杯だと思います。
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<千 昌夫>
USEN創業50周年おめでとうございます。USENとは、本当に長い付き合いになりました。一番苦しかったデビュー当時、USENに助けられました。私はデビュー当時(1965年)、レコード会社の芸能部に所属していましたが、売れない歌手ということで、レコード会社の担当者がマネージメントをしてくれませんでした。その頃「有線放送所というものがある」という話を聞きつけて、自分で調べたところ、東京に36ヵ所の有線放送所があることがわかり、そこに1軒1軒、ギターをもって歌を歌いに行きました。当時はまだ、有線放送所にプロの歌手が挨拶に行くということがなかったので、レコードを掛ける女性の方々が大変喜んでくれ、「プロの歌手が生で歌ってくれた」と感激してくれました。
その翌日から、毎日36ヵ所の有線放送所に電話して、「千 昌夫ですが今日も『星影のワルツ』を掛けてください。」とお願いしました。それを1年半ほど続けました。
すると、私が1日でも電話を休むと、レコードを掛けてくれる女性陣から「昨日は電話なかったけど、どうしたんですか?」と言っていただけるほど親しくなりました。
「星影のワルツ」は、大きな、大きなヒットに繋がりましたが、その方たちのバックアップがなかったら、有り得なかったと思います。
私、以前には有線放送所を廻ってキャンペーンした歌手は居なかったと思いますので、有線放送所廻りをした歌手は、私が最初だったと思います。
私が有線放送所廻りをしていることに、周りのタレントが気づいて、「本当に効果があるの?」と疑心半疑だったようでしたが、「星影のワルツ」がヒットした昭和43年から44年くらいには、確実に有線放送は注目されるメディアになっていたと思います。
今、USENも大きな放送所になっているようですが、私が挨拶に廻っていた時代の、「人間と人間の心の暖かさ」はぜひ持ち続けていただきたいと思います。
私も、ずーっと歌を歌っていきますので、USENも60周年、70周年、あるいは千年、続けていただきたいと思います。私も、千年も万年もということで、千昌夫という名前を遠藤実先生に付けていただきました。お互いに、がんばりましょう!
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<浜村 淳>
USEN創業50周年おめでとうございます。
私は1968年から23年間、USENと読売テレビが一緒に作った『全日本有線放送大賞』の司会を務めました。宮田 輝アナウンサーがメインの司会、そして1曲1曲の歌の司会を、私が担当しました。
もともと歌の紹介は浜村が行うという発想がどこから来たかと申しますと、当時、日本レコード大賞、日本歌謡大賞などで賞を贈るのは、すべて東京のテレビ局でした。
関西ではただ1局、読売テレビで賞を贈る番組を行うと決まったときに、読売テレビがお考えになったのが、「大阪らしい特徴を出さなくてはならない」ということで、ついては「浜村さん、演歌のイントロに乗せて、七五調で紹介をしてもらえませんか?」という依頼が来ました。やったことがなかったので、はじめはお断りしましたが、資料を集め研究したところ、サイレント映画の活動弁士、西村小楽天さんが、活動弁士の口調である七五調で、美空ひばりさんの歌の司会を行ったという資料を見つけました。それを参考に、歌詞の中から物語となる言葉を選び出して繋ぎ、それをイントロに乗せて喋るという道が見え、学ばせてもらいました。
それを、実際に行ったところ、誰が一番喜んでくれたかと言うと、歌手の皆さんでした。「浜村さん、あれ古いねえ。でも恥じたらあかんよ。あれをやってくれていることで、僕らは非常に歌いやすい。」と、森 進一さんも、青江三奈さんも、内山田 洋とクールファイブの皆さんも、渡 哲也さんも、みんな喜んでくれました。それで自信を持ってやるようになったんです。
近年でも小林 旭さんが「昔の名前で出ています」で全日本有線放送大賞をとった思い出を話すときに、私が言った「おひとり、おひとり、十円玉に願いを込めてリクエストしてくださった」という言葉を引用してくださっていると聞いて、大変嬉しく思っています。
皆様も、おひとり、おひとり、手に十円玉を握り締め、演歌のリクエストもしてくださいますようお願いいたします。
本当に50周年おめでとうございました。
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<森 進一>
USEN創業50周年おめでとうございます。
私が「盛り場ブルース」で第一回全日本有線放送大賞をいただいたのが、昭和43年のことですから、もう40年以上も前のことになります。
この賞は、もともとテレビの『11PM』の年末企画で『夜のレコード大賞』と言われていたものだったと記憶しています。
その「盛り場ブルース」は、私の恩師チャーリー石黒先生に、初めて作曲していただいた曲ですが、歌詞の中に全国各地の有名な盛り場の名前が出てくるということで、当時、私は、北は札幌から南は九州 博多まで、高度成長期でネオンきらめく各地の盛り場を、ギターを片手に、キャンペーンで廻ったものでした。
お陰様で、ホステスさんやお客さんが、有線放送にたくさんのリクエストをしてくださって、そこから大きなヒット曲になりました。まだデビュー2年目の曲でしたし、第一回全日本有線放送大賞の受賞は、大変光栄で、「がんばれよ!」と背中を押していただいたような気持ちになったことを覚えています。
私も今年歌手生活45年になりますが、これからもUSENファンの皆様をはじめ、多くの方に愛していただける歌を歌い続けたいと思っています。
USENの益々のご発展をお祈りしています。
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<五木ひろし>
株式会社USEN、創業50周年おめでとうございます。
改めて振り返りますと、思い出がたくさんあります。
私自身、昭和46年、五木ひろしとして「よこはま・たそがれ」でデビューしたときに、全日本有線放送大賞、銀賞をいただいたのがスタートでした。
当時は、『夜のレコード大賞』というタイトルで始められていた賞をいただいたということで、大変嬉しかったことを、はっきりと覚えています。そしてまた、当時は有線放送からヒットが生まれるという時代でもありました。ですから、五木ひろしとしてスタートする以前に、なかなか上手くいかない時代も、一生懸命有線放送所を廻り、自らリクエストをするということも、重ねておりました。
そして「よこはま・たそがれ」でも、僕自身もリクエストしたり、当時の有線放送所をいろいろ廻らせていただいたりしました。
有線放送所では、女性社員の方がリクエストを受けるところにキャンペーンに行って、直接リクエストの電話に出て、「私 五木ひろしです。リクエストありがとうございます」と言っていました。そしてリクエストがだんだん増えて、大きなヒットになりました。まさにUSENは、ヒット曲を生むということについて、本当に大きな歴史があったのではないかと思っています。
僕自身、五木ひろしとして40年間歩いてきましたが、USENさんとともに歩いてこられたという実感があります。思えば、五木ひろしとしてスタートした何年目かに、創業者、宇野さんの自宅にお伺いして、色々な話しをさせていただいて、音楽やUSENの話に花が咲いたことを思い出します。
50年という素晴らしい歴史を築かれて、これからも多くの音楽の好きな皆様に、音楽をたくさん届けていただければと思っています。また、それにふさわしい良い歌を一生懸命、頑張って歌っていきたいと思っています。
本当に50周年おめでとうございます。これからも頑張ってください。
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<森 昌子>
USEN創業50周年おめでとうございます。
思えば私がまだ13歳だった、1972年に「せんせい」でデビューしたときから、有線放送をお聴きの皆様には、私の曲にたくさんのリクエストをいただき、心から感謝しています。デビューの年の、夜のレコード大賞では、そんなたくさんのリクエストの結果として、見事に新人賞をいただくこともできて、大変感激し、勇気付けられたことを覚えています。
また、「悲しみ本線日本海」のとき、佐渡に渡る佐渡汽船の乗船の時にこの曲を掛けてもらっていたので、本当によく新潟にお邪魔したのですが、その度に有線放送所も訪問させていただきました。だんだん有線放送所の皆さんが、私の顔を見ると、「また来てくれたの」と声を掛けてくださり、「どんどんレコード回すからね。「悲しみ本線日本海」頑張ろうね」と励ましてくださったりしたことを思い出します。
これからも、USENとともにヒット曲を生んで行きたいと思っています。
55周年、60周年に向けて、頑張ってください。
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<八代亜紀>
USEN創業50周年おめでとうございます。
それまでは、売れない八代亜紀だったんですが、1973年に「なみだ恋」がUSENのベスト10に入ってきました。そしてテレビ局の方もラジオ局の方も、「USENでヒットして来たから、じゃあ使おうか」みたいな感じでしたから、USENには感謝で一杯です。
「なみだ恋」のキャンペーンでは、10円玉を大入り袋に入れて、それを全国のスナックのお客さんに「大入りです。大入りです。これでUSENリクエストお願いします」と言って配って廻りました。
その成果は本当に表れて、あちらこちらから1位という報告を聞きました。USENは努力の成果が本当に表れるところですよね。凄いと思ったのは、お客さんのひとりひとりが、公衆電話に10円を入れてリクエストしないとヒットしない、そこに愛情を感じました。皆さんの愛があることを感じました。
また、キャンペーンで全国色々なところに行くと、必ず有線放送所に挨拶に行くのですが、既にたくさんの方が訪問していて、色紙、ポスターがどこの有線放送所にも張ってあったことを覚えています。
USENからヒットすると、大ヒットという順番でした。これからもUSENというものは絶やさず、アナログという感じがするので、大切に守っていきたいと思います。八代亜紀も頑張りますので、USENの皆様も頑張りましょう。
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<宮路オサム>
USEN創業50周年おめでとうございます。
USENとのお付き合いは長いですね。デビューとともに思い出が多いです。
「北の恋唄」でデビューして、各地に行くと必ずその街の、有線放送所にご挨拶に行きました。僕らが持っていったお土産のお菓子をつまみながら、リクエストを取る女性ひとり以外は皆でお茶を飲んで、いろんな話をしたことを覚えています。
次の週に気にして、その地区のチャートを見ると、ちゃんとベスト5や、ベスト3、1位に入っていたりしていましたので、USENをお聴きの皆さんはもちろん、モニターの女性たちにもお世話になりました。その年の年末には「北の恋唄」で、『夜のレコード大賞』新人賞もいただきました。
USENの方々とは思い出が多くて、モニターの方々に集まってもらってボーリング大会や茶話会を催したこともありました。面白かったのは、ホストクラブ大会。殿さまキングスの4人がホストになって皆さんをもてなした、そんな思い出もあります。
また、地方の有線放送所に行った時には、「マイクでご挨拶して」と言われて、新曲を掛ける前に「こんばんは、殿さまキングスです。○○の有線放送所にご挨拶に来ています。これから新曲聴いていただきます。よろしくお願いします」と言って新曲を掛けてもらうと、ジャンジャン電話が鳴って「いまの歌、いい歌だね」とか「USENの隣の隣のスナックだけど帰りに寄って飲んで行け」、「ご飯食べに来い」などの電話もありました。
当時、USENは演歌・歌謡曲でヒットするパーセンテージの半分以上を占めていました。「USENで来ないとダメだよ、演歌・歌謡曲は…。」と周りのスタッフもそんな思いでしたから、新曲を発売するとUSENの各地のチャートを、他の歌手も含めて、すごく気にしていました。
殿さまキングスのヒット曲は、USENとともに生きてきた、という感じですね。
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<都 はるみ>
都はるみです。USEN創業50周年おめでとうございます。
本当にUSENにはお世話になりました。昭和51年の「北の宿から」では、グランプリをいただきました。すごく嬉しかったです。皆様がリクエストしてくださってグランプリを獲れるということは、自分の自信にもつながりましたし、あぁ、歌っていてよかったんだなぁと思いました。
それから「大阪しぐれ」でも特別賞をいただきまして、この時は本当に頑張りました。大阪有線放送(当時)のみなさんのところへ行った時に、「大阪しぐれ」は、なぜ北の方しか入っていないんだと、なぜ難波(南)の方は入れてくれなかったのか?など結構色々な意見をいただきました。
それを経て、昭和57年「ふたりの大阪」、これは思いっきり難波(南)の方を入れました。この曲も賞をいただきました。それから1年後の昭和58年には「浪花恋しぐれ」、これはグランプリをいただきました!この時は岡 千秋さんとのデュエット曲ですから、岡さんと1年近く一緒に歌ってきて、「本当にふたりでよかったね。」と言っていました。
皆様のリクエストの力があったからこそ、いただけた賞ばかりです。これからも皆様の力を信じています。だから、どんどんリクエストしてください。50周年本当におめでとうございます。これからも頑張ってください。都はるみでした。
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<西城秀樹>
USEN創業50周年おめでとうございます。西城秀樹です。
演歌の方だけじゃなくて、ポップスの僕もUSENを廻っていましたよ。
USENはザ・ベストテンの順位に関わっているなど影響力が大きくて、USENのお姉さんに可愛いがられないと君はスターになれないと言われたほど。
「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を出して、この曲は残念ながら発売した時、皆さんに反対されたんです。ですから、USENのお姉さんに「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を気に入ってもらえなかったら、放送してもらえてなければ今日の私はなかったと言えます。
それから皆さんの記憶の中で、USENといったら演歌というイメージが強いと思うんですが、演歌だけでなくやはりPOPS、洋楽など、僕もUSENを導入したくらいですから、チャンネル数が多くて、当時は自宅でよく聴いていましたね。そしてリスナーのみなさん、もっともっとUSENを利用して、好きな音楽を色々な形で楽しんでみてはいかがでしょうか。以上、西城秀樹でした!
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<タケカワユキヒデ>
USEN創業50周年おめでとうございます。タケカワユキヒデです。
いやぁ、50年ですか、ビックリしちゃいますね。僕が58歳ですから、もう8歳の時にはあったんですね。
もう随分前になりますけど、30年くらい前だと思いますが、USENにキャンペーンでお邪魔したことがあります。たくさんの女性の方々が生で曲を流しているところを見て、「すごいな~」と思ったことがあります。僕が行ったら本当に喜んでくれて、普通は放送局に行っても「何しに来たの」みたいな雰囲気があって、喜んでもらえないんですけど、USENの方々には喜んでもらえたのが嬉しかったですね。
それが講じて、現在僕は、I-40チャンネル「昭和ちゃんねる」のパーソナリティをしています。面白いのでぜひ聴いてください!
僕はUSENをこれからも応援していきますし、色々な番組を期待していますので、一緒に頑張りたいと思います。頑張ってください!おめでとうございました。タケカワユキヒデでした。
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<小林幸子>
USEN創業50周年おめでとうございます。小林幸子です。
私の自宅は、USENをひいております。
自分の番組を聞いたり、他の方の番組も聞きますし、だいたいお昼はボサノバのチャンネルですかね。そして夜はジャズかな。朝はC-21ch(笑)。USENにまつわる思い出はたくさんありますけど、私が忘れることができないのは、昭和54年なんですが、私の「おもいで酒」がチャート1位をとり、その年の全日本有線大賞のグランプリを、「おもいで酒」が受賞させていただきました。
デビューして15年目にいただいたヒット曲なんですけど、それまでヒットとか1位とかはまるで他人事で、その年は毎日うれし涙ばっかり流していたような、そんな記憶があります。その昭和54年1月だったんですが、当時のプロダクションの方から連絡がありまして、「さっちゃん!USENで1位になったよ!」って言われて、私が「そんなわけないじゃない。」「いや、本当にそうなんだよ!」って言われて「そんなに信用しないんだったら、さっちゃん自分で放送所に電話をして聞いてごらん。」って言われたんで、電話をして聞いたんです。当時は「夢追い酒」がものすごくヒットしていたんで、それの間違いなんだろうな~と思って。なんとなく軽い気持ちで電話してみたんです。「もしもし、そちらのUSENで1位の曲ってなんて曲ですか?」って聞いたら、「1位の曲ですか?少々お待ちください。あ、おもいで酒です。」って言われてビックリして、その後私何を聞いたかって言うと、「すいません、誰が歌ってますか?」って聞いたんですよ。そしたらオペレーターの方が、不思議そうに「小林幸子さんです。」って言われた時には私自分の名前をもう一度聞き直してしまいました。「小林幸子ですか!?」って聞いて、「はい。」って言われて「ありがとうございました!」って電話を切ったんですね。切った瞬間にポ~っとして、私の名前だったよね・・・?私の「おもいで酒」だよね?え~!?!?
それからしばらくしてから、USENの1位だったことが色んなところで点として、関西エリアだけではなく、どんどん飛び火していったんですね。北海道とか九州とか。なんなんだこれはって、そうこうしているうちに点が線になって、線が立体になってきたんですよ。その時に初めて売れるとか、ヒットしているとか、リクエストがあるっていうのはこういうことなのかわかった、昭和54年はそんな年でした。「おもいで酒」はUSENに引っ張っていただいて、本当に大きくなった歌です。私にとっては有線放送がなくては、今の小林幸子は存在しないと言っていいほど。
あれから32年あっと言う間でしたが、新曲を出すたび応援していただいて、これからも皆さんにリクエストしてもらえる歌を作り、歌い続けていきたいと思います。そして、ますますのUSENの発展をお祈りしております。どうぞ頑張ってください。小林幸子でした。
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<近藤真彦>
USEN50周年おめでとうございます。近藤真彦です。
僕は随分とUSENを利用させていただいております。家に友達が来たりする時は、今はマンションに住んでいるんですけれども、その前は一軒家に住んでいて、一軒家の応接間でしょ、お風呂場でしょ、サウナの中でしょ、そして1階の玄関にスピーカーを埋め込んで、それで応接間のスイッチで、全部どこで音が流れるか、操作できるようになっていまして、わりと僕はお風呂で聴いたりしました。それよりも何よりも面白いのは友達が来て、アジアン・テイストな料理を、みんなご馳走する時とか、他にもお店から買ってくる時にも、アジアン・テイストなチャンネルに変えてみたり、お正月に友達が来た時に「春の海」が流れているチャンネルにしてみたり、クリスマスはクリスマス・ヴァージョンにしてみたり、すごくその辺はUSENの色んなバリエーションがあって助かったのを覚えていますね。後は子どもができた時に、子ども用のCDを買う以前にね、何が好きか、よくわかんないんだけど、「USENで子どものチャンネルないかな…あ!あった、あったこれだよ!」ってパッとチャンネルを変えたら子ども向けの音楽がずっと流れててね、そういう意味ではすごく活用させていただいています。非常に便利に使わせていただいております。
僕は1981年、昭和56年ですね、全日本有線放送大賞の最優秀新人賞を「ギンギラギンにさりげなく」でいただいています。ここに“その当時のことを覚えていますか?”って書いているんですけれども、覚えてません(笑)。すいません。もう30年前の話ですからね、なかなか覚えてないのと、このUSENの最優秀新人賞だけではなく、もう本当に20個くらい最優秀新人賞を各地方放送局から、それこそレコード大賞、歌謡大賞の新人賞までいただいたということで、なんかみんなもらっちゃったんで、贅沢なんですけれども、あまり覚えていないんです。その「ギンギラギンにさりげなく」は、みなさんが知っている、僕にとってもすごく大切な曲になったんですけれども、この曲を出す時に、プロデューサーやディレクターたちが、『マッチが「スニーカーぶる~す」でデビューして、とにかくこの次の曲で新人賞を獲らなきゃいけないんだけど、近藤真彦らしく、ギンギラギンにさりげなく…』って言って、「おぉそれだよ!!」というふうになったのがね、このタイトルなんですよ。だから「ギンギラギンにさりげなくやろうよ」っていうことで、それがそのままタイトルになってしまって、本当に有名な曲になったんです。今でも「ギンギラギンにさりげなく」は、小さい子どもからゴルフ場のキャディのおばちゃんまで知っていて、この前もゴルフ行ったら、「私、大好きなんです!あの曲」って言うから、最近の曲かなぁと思ったら「ギンギラギンにさりげなく」っていう30年前の曲を言われて、ちょっとガックリきてしまいました。ということで、「ギンギラギンにさりげなく」で最優秀新人賞をいただきました。僕も去年デビュー30周年を迎えることができまして、今年31年目ですね、USENさんは50周年ということで、僕もUSENさんに負けないように50周年目指して頑張りたいと思います。これからも応援しています。一緒に頑張りましょう!近藤真彦でした。
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<鈴木雅之>
USEN創業50周年おめでとうございます。鈴木雅之です。
デビュー当時「ランナウェイ」が街の中で聞こえてきた時、凄く感動した覚えがあります。それはもちろん、USENから流れてきたものでした。
そして1983年の「め組のひと」の時に、全日本有線大賞の最優秀グループ賞をいただくことができました。この曲はシャネルズからRATS&STARに改名しての第一弾シングルでした。チャートでも1位になり、自分自身でもとても大事な楽曲の一つです。
更に1987年には鈴木聖美 with Rats & Starで、最優秀新人賞を「ロンリーチャップリン」で受賞することもできました。この頃はグループとは別に、鈴木雅之がソロとして走り出したばかりで、マイソウルお姉ちゃん鈴木聖美のプロデュースと、RATS&STARの活動で、ハードスケジュールの毎日でした。そんな中、私自身が作曲した曲ですから、受賞の時は感慨深いものがありました。「ロンリー・チャップリン」も今ではデュエットの定番として、カラオケでも愛され続けています。今年鈴木雅之はソロデビュー25周年。USENは50周年。これからも素敵な曲を届けていきましょう。USEN50周年本当におめでとうございます。鈴木雅之でした。
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<城之内早苗>
USEN創業50周年おめでとうございます。城之内早苗です。
50周年ですもんね、ということは、私はソロ・デビューをして今年が25年なので、50周年の半分はガッツリお世話になってるんだなぁ・・・改めて、お世話になっております。
色々と資料を見せていただいた中で、1987年の会報誌を見て「えっ!」って驚いてしまったんですが、山瀬まみちゃんと私がUSENに行きまして、“1日体験モニター”というのをやった写真が掲載してあるんです。このモニターっていうのは、USENに電話をかけて、リクエストの応対に出てくれる女性の方のことなんですけど、その方々は、電話対応だけではなく、レコードがあるところに走るんですよ。それで「今から何分後におかけできますよ」など、そういう情報もくださる、それを1日だけ体験でやったんですよ。
リクエストすることは結構慣れている何でもないことないんですけど、受けるって大変だった。リクエストをする方のご機嫌もあるじゃないですか。ブスっとした方も、「よろしく~!」みたいな方もいらっしゃるし、それからモゴモゴ言う方や、ハッキリ言ってくださる方もいるので、そういう意味では私は素人なので、結構苦労しながらも、(こういう人たちのリクエストがあって、こうやって曲が流れるんだなぁ)と思ったことを覚えています。
それから、リクエストを受けるモニターさんは、私と同世代の若い女性の方々が圧倒的に多いんですよね。私はその皆さんと頻繁にボーリング大会をやりました。それで各有線放送所のエリアの方々が集まって、懇親会というか、わりと皆さん長くお勤めしているので、回を重ねていくと、結構プライベートな悩みとか、そんなことも打ち明けるようなそんな間柄になれたっていうのが、すごく楽しかった記憶がありますね。そういう間柄で「今度新曲が出るので宜しくお願いします」って電話をかけさせていただくんですね。すると「早苗ちゃん、今度の曲ってさぁ、こうだよね!あーだよね!いいよね!なんか違うよね。」とか忌憚ない意見を言ってくれるのもモニターさんでしたね。そういった意味で、私たち歌手にとって、USENのモニターさんや、USENそのものというのは本当に身近なところにあったんです。最近レコード屋が少なくなってきて、手に入れるのも難しくなった。かといってネットでダウンロードするっていうのも私世代ではちょっと、と思っちゃう。電話でリクエストしたらかけてもらえる、そんなシステムはずっと永遠に頑張って欲しいなと思います。私もUSENで1度でも2度でも多くかけてもらえるようないい曲を歌っていけるように、頑張っていきたいと思います。
ということで、これからもUSENさんには100年、200年周年に向けて頑張っていただきたいと思いますので、私たちも応援したいと思います。そして、引き続きお世話になります。どうぞ宜しくお願い致します。城之内早苗でした。
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<荻野目洋子>
USEN創業50周年おめでとうございます。荻野目洋子です。
私も新人時代に、各地のUSENさんにご挨拶周りに伺ったことを今でもよく覚えております。その時に女性の方たちが沢山並んでいらっしゃって、電話で受け付けている姿を見ていました。本当にたくさんの方のそういった力があって、リクエストをしてくださる方の力ももちろんなんですけれども、たくさんの人たちが関わって、皆さんの耳に音楽が届いていくんだなということを実感しました。
そういった中で、やはり自分の曲がリクエストされるのは本当に嬉しいことで、1986年当時、私は「六本木純情派」、「ダンシング・ヒーロー」などで、たくさんの方にお世話になりました。やっぱりどこへ行っても自分の曲が流れると、不思議な感じがするんですけれども、それだけ皆さんの支持があるということで、本当に素直に嬉しいなといつも噛み締めていました。
USENさん、これからも素晴らしい音楽をどんどん届けて、日本全体が元気で、音楽で溢れることを祈っています。これからも期待しています。荻野目洋子でした。
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<瀬川瑛子>
USEN創業50周年おめでとうございます。瀬川瑛子でございます。
おかげさまで、私も来年デビュー45周年を迎えさせていただきます。
何か振り返ってみると、もちろん今もそうですけれども、USENさんと同じ歩みをさせていただいているんだなあと、感慨深いものがあります。
デビューした当時は、今よりもとっても多くのキャンペーンがありまして、日本全国の方々、北は北海道から、南は沖縄までキャンペーンをさせていただいておりました。レコード店さんの店頭で歌わせて頂いたり、スナックで歌わせて頂いたり、そのとき必ず、各地にあるUSENさんにお邪魔するのが、とても楽しみのひとつでした。
たまたま、「命くれない」が出る前にお邪魔したときに、あの~偶然、自分の歌が流れていたことがありまして、とっても喜んでおりましたら、そこに「どなたが歌っているんですか?」っていう、USENさんへのお電話の問い合わせとぶつかりまして、何か胸がキュンとうれしくなる想いが致しました。
歌い手というのがあの一所懸命自分の歌を一人でも多くの方々に聞いていただく、歌っていただくことが、何よりも嬉しいことですが、USENさんのおかげで、いろんなヒットが生まれたんじゃないかと思います。もちろん、私の歌の中にもそういうものがありますし、ほかの歌手の方にもたくさんあると思います。私たち歌手にとって、大切なUSEN。
思い出になりますけれども、昭和62年「命くれない」と出会いまして、自分でも驚くくらいのヒットとなりました。昭和最後のミリオンヒットと言っていただけるのもやはり、一回一回皆様がダイヤルして下さったUSENさんへのそしてUSENさんの方々も自発的にリクエストが無いときにもかけてくださった、そういうことが重なって私ども歌手の夢でございました全日本有線大賞のグランプリを頂きました。そのときは、3年連続でテレサ・テンさんがお取りになっていたときで、テレサ・テンさんから直接とてもあたたかいまなざしで、そして、さわやかに「瀬川さん、よかったですね。これからもがんばってください」と言われたことを、まるで本当にこの間のような、つい昨日のような思い出として残っています。天国に逝ってしまいましたが、そんな、テレサ・テンさんの楽曲も毎回毎回まだ、多くの皆様からリクエストがあるっていうことも歌の持つ魅力じゃないでしょうか。私も45周年に向けて、さらに頑張りたいと思っています。やはり一つ一つの歌で皆様がふと、あっと想いを止めて頂き、またリクエストにつながることが何よりもの私どもの幸せですので、私も精進、努力して参りますので、USENさんいつも、ご利用くださいます皆様も季節の変わり目などに、身体を壊されぬよう、そしていろいろなことが心配な事が起きているこの世の中を皆様と一緒に乗り切っていけたらいいと思います。
USENさん、そしてリクエストをくださる大切な皆様。これからもお互いに元気でいきたいですね。USENさん一緒にあるいていきましょう!
いつも本当にありがとうございます。瀬川瑛子でした。
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<吉 幾三>
USEN創業50周年おめでとうございます。吉 幾三です。
USEN、名前は横文字になりましたけど、昔は漢字で有線放送だった訳ですが、大変お世話になりました。私がUSENで曲が流れるようになったのは、実は、吉 幾三になってからなんですね。山岡英二って名前をご存知ではないと思いますが、一応アイドルとしてデビューしていたんです。郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹の足元にも及ばずに、吉 幾三という名前に変えて、「俺はぜったい!プレスリー」から吉 幾三になったんです。その時は、レコード会社もとにかく「吉 幾三になったことを内緒にしろ」と、「山岡英二は捨てろ」と、改めて再デビューするつもりで頑張れと言われました。「え?誰にも言っちゃいけない?」。当時レコードジャケットがイラストでして、名前を変えてクラウンレコードだったんですが、レコード会社に行くと、宣伝マンの人たちが「おい山岡!青森からよ、吉 幾三ってデビューしたんだけど、お前知ってるか!?」って言われて、私は知ってるけど言えないから「え!そんなの出たの?」と答えました。そしたら「田舎のプレスリーって知らないのか!?」って言うから、「あ、知ってる知ってる!」「それが今出てるんだよ!」「え~!どんなやつなの?」って言ったら、「それがわからないんだよ。」って話になってですね、覆面歌手で吉 幾三になって、これがUSENで東北六県、確か北海道の函館から火が付いたと思うんですよ。その後「と・も・子・・・」という歌があって、それが東北六県と北海道全域のUSENで約半年間ず~っと1位だったんです。東京では今ひとつだった訳ですけれども…。USENには大変お世話になっておりまして、本当にたくさんの方のお耳に届いたかと思います。
「酒よ」に関しては、1988年だったと思いますが、全日本有線大賞において最優秀スター賞グランプリ賞を受賞したんです。もう「雪國」もそうですしね、私はUSENに貢献してるんですよ皆さん!貢献しているにも関わらず、50周年のお祝いのメッセージをって、この忙しい私をつかまえて、社員の方がここまで来ているものですから、それは喋らなきゃいけないということですね。
この「酒よ」はね、年末に、赤くて四角いポストにレインコートかけてお酒を飲んでいるお父さんが居たんですよ。「寒いんじゃないの?」って言ったら、「いいんだよ!大丈夫だよ!」って言われて、鹿児島の人だったか、熊本の人だったか、「正月は仕事で帰れないんだよ。もう何年も帰ってないんだよ。」って何かね、しんみりしながら話す話を聞いてね、「お前はどこだ?」って言うから、「俺は東北だ」って言ったら、「そうか。お前は帰るのか?」、「俺は正月帰るつもりだよ」って言ったら、「お前、毎年ちゃんと帰ってやれよ。大丈夫だよ。うちはすぐそこだから」って言われて、「お父さん、風邪ひかないようにな」って、その人とすれ違って、その翌年に「酒って色んな酒があるんだな」と思って、「酒よ」を書き始めたんですよね。この「酒よ」が最優秀スター賞グランプリ賞をいただいた時は、本当に嬉しかったですね。あの時、賞金か何かいただいたと思うんですけれども、多分一晩で飲んでしまったんでしょうな!(笑)
どうぞ、皆様これからも、どんどんUSENでリクエストしていただいて、そして色々な音楽を聴いて、心和やかになっていただきたいなと思っております。これからもUSENを応援しております。そして皆様が、レコードを買わなくてもUSENで聴いていただくことを期待しています。USENの方々、そしてこの場を借りて何ではございますが、岩手、青森、そして福島、宮城、今回被災された方々、大変ご苦労さんと思いますけども、とにかく焦らずに、前だけ見てゆっくりと復興に向けて頑張っていきましょう。私たちも少しずつそちらに伺うなど、応援していきますので頑張っていきましょう。大変でしょうけれどもお体に気をつけて、これからもUSENをどうぞ宜しくお願い致します。
USEN創業50周年おめでとうございます。吉幾三でした。
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<沢田知可子>
USEN 50周年おめでとうございます。沢田知可子です。 この歌に、私は人生を支えていただいています。ある意味、有線放送、USENにですね、私がこの世に出させていただいたようなものでございます。
1990年に発売されました「会いたい」という歌。その「会いたい」の発売直後、中央競馬会、いわゆるJRAのCMソングが決まりまして、そのCMソングのプロモーションで一生懸命駆け巡っている頃に、なんと独り歩きで、それもUSEN放送の純粋なリクエストで、チャートが上がっていたのを覚えています。本当に夢のような1年でした。あの1991年、つい昨日のことのように、私は今も「会いたい」に感謝を込めて、そして今は、今を生きるための鎮魂歌として、大切に歌っています。
USEN50周年、これからも沢田知可子の「会いたい」と共に、沢田の歌をぜひぜひ見守ってやってくださいませ。
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<山根康広>
USEN創業50周年おめでとうございます。山根康広です。
実はUSENと言うとですね、凄く思い出が沢山ありまして、まずUSENがなかったら、今の自分はなかったんじゃないかなというか、音楽をやっている自分がなかったような、それぐらいの感じなんですよね。
最初デビューした時は、インディーズに近いかたちで、自分でアルバムを作って、デビューはクラウンレコードからということで、レコード屋さんにはCDを多少置いてもらっていたんですけど、数えるくらいの大きいレコード屋さんだけでした。どこ行っても無い状態で。当時は俺、働いていたんです。サラリーマンをしておりまして、働きながら音楽をやってて、それで土日はライヴ以外に、デビューしたからということで、例えば街中で歌ったりとか、そういうことをしながらやっておりました。そこではテレビとかラジオに全くご縁がなかったんですけれども、USENでですね、放送局に行ったら1回かけてくれるんですよ。それでもし視聴者が気に入ったら電話がかかってきて、「今の曲なんですか?」みたいな問合せがある訳ですね。それが少しずつ増えてきて、色々なUSEN放送所に出向いてかけてもらいました。それで問合せが徐々に徐々に大阪を中心にリクエストに繋がっていって、1993年デビューなんですが、夏あたりまでかな、大阪でずーっと盛り上がっていてリクエストが増えてきてて、その後、東京でテレビに出ないかという話に繋がっていくキッカケになったのも、全てUSENですからね。凄いですよね。レコード屋さんでもかなり盛り上がってきてからですかね、貸しレコード屋さんで置いてもらえるようになって、それからやっと最後に普通のレコード屋さんでもCDを置いてもらえるようになったという思い出があります。USENの方には凄くお世話になっておりました。
ということで、これからも一緒に頑張っていきたいなと思いますので、ぜひぜひ宜しくお願いします。山根康広でした。
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<藤井フミヤ>
USEN創業50周年おめでとうございます。藤井フミヤです。
私が今年49歳になるので、僕が生まれるほんの1年前にUSENができたということになるんですね。USENはチェッカーズ時代から色々世話になったと思います。町中いたるところから音楽がかかる。例えばアーケードから、パチンコ店から、もちろんレストランから、いわゆるポップスであったりロックだったり演歌だったり、かかるようになったのはUSENのお陰だと思っております。
さて1993年に私のソロ・デビュー曲「TRUE LOVE」、これもUSENではかなりかけていただいたんではないかと思うのですが。「TRUE LOVE」は、僕がソロになって初めてひとりでやるということになったので、ちょっと作曲とかもやり始めないとマズいかなという感じで、生まれて初めての作詞・作曲の歌なんですね。この「TRUE LOVE」は非常に運のいい歌でして、ヒットするであろう小川がいっぱい流れていて、ひとつの大河のようになってヒット曲になりました。私もチェッカーズ解散して一発目のシングルというのもありましたし、ドラマの「あすなろ白書」の主題歌でもあり、そこに木村拓哉君も出演していましたし、色んな要素が折り重なってヒットが生まれたのではないかと思います。まぁ、藤井フミヤと言えば代表曲は「TRUE LOVE」でですね、結構、結婚式に呼ばれる度に歌ってくれと言われますね。人の結婚式で30回以上は歌ったのではないかと思います。そういう意味では、一応めでたい席で歌われる歌ということなんですね。このまま行くと私は死んで、出棺の時は「TRUE LOVE」が流れるのではないかという気がいたします。私が亡くなる時、ワイドショーではこのままでは「TRUE LOVE」だなという感じがしているので、出棺の曲を変えたいという想いがありまして、日夜、日々頑張っております(笑)
というわけで、これからも「TRUE LOVE」、皆さんが愛する曲であって欲しいなと思います。藤井フミヤでした。
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<レニー・クラヴィッツ>
USEN 50周年おめでとう!いつもサポートしてくれてありがとう。
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<PUFFY>
USEN創業50周年おめでとうございます。PUFFYの大貫亜美です。吉村由美です。
PUFFYはですね、1996年の全日本有線放送大賞で最優秀新人賞を受賞しました。
由美(以下 Y)「本当にありがたいことですよね。」
亜美(以下 A)「だってこれ知ってる?新人賞って獲れるのは一生に一度ですよ。獲れるチャンスがあるとすれば」
Y「因みに、別のグループを組んだら、またいけるってこと?」
A「まぁまぁ、もちろんそうですけど。あなた、喧嘩売ってるんですか?(笑)」
Y「いやいやいや・・・本当にすごい光栄なことですよね。」
ふたり「ありがとうございます。」
Y「あ、USENと言えば、関係ないかな?個人的に関係あることなんだけど、マンションにUSENが付いている子のうちに行ったことある?」
A「ない!マンションであるの?」
Y「あるんですよ。昔、思春期の時にお付き合いしていた人の家が、USENが入っているマンションで、ず~っと入り浸ってた。」
A「USEN聴きたくて?USEN大好きっ子!」
Y「うん。やっぱ思春期の時って、お小遣いがそんなにないから、CDを購入する予算がないけど、その子んちに行ったら、ウワァ!って聴けるから、すっごい行ってた!」
A「私はUSENってスタジオで流れてるイメージがすごいあるんだよね。主に、撮影スタジオ。」
Y「あ!流れてます、流れてます。」
A「それで色んなチャンネルが選べるじゃん?すごい画期的だなと思って。自分の好みの系列のチャンネルをさぁ。チャンネルもすごい多いでしょ、すごいと思ってたの。」
Y「大人になってからだね。(笑)」
A「だって、そんな子んち行ったことないもん。」
Y「ちょっと関係ない話ししちゃったけど、1996年に新人賞をいただいて、デビューの年で右も左もわからぬまま、色んな方々に応援していただいて、今年でPUFFYデビュー15周年ということで、これからも色々頑張っていきたいなと思いますので、ぜひひとりでも多くの方に応援していただけると嬉しいなと思いますよね。」
A「はい!本当です。皆様のお陰で新人賞もいただきまして、ありがとうございます。」
Y「ありがとうございます。何かあればね、すぐPUFFYでと・・・」
A「あ、リクエストいただいて、ぜひぜひ。」
Y「USENさん、今後とも宜しくお願いします。という訳で、USEN50周年ということで、これからも応援していますし、PUFFYのことをぜひ宜しくお願いします。」
A「一緒に頑張りましょうっていうか、頑張ってください私たちと。癒着で(笑)」
Y「はい、私たち一生懸命頑張ります。」
A「以上、PUFFYでした。」
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<天童よしみ>
USEN創業50周年おめでとうございます。天童よしみです。
私とUSENは、同じ歴史を作ってきたのでしょうか。思い出せば、私も長い下積みの時代、憧れのUSENに自分の曲が流れるようにと頑張ってきた日を、昨日のように思い出します。そんな時「珍島(チンド)物語」に出会い、この曲を携えて全国のUSEN放送所を訪ね歩き、レコードをかけていただきました。おかげさまで「珍島(チンド)物語」はミリオンセラーになりました。多くの方々に聴いていただき、毎日USEN放送から流れない日はなくなり、本当に嬉しかったです。そして遂に、韓国の珍島をはじめて訪れることができました。作詞・作曲の中山大三郎先生と、海割れを見て感動。思わず先生と手を繋ぎました。水のない海道を歩いたのも、懐かしい思い出です。そして1996年と言えば「珍島(チンド)物語」のヒットのお陰でたくさんの賞をいただき、私の“よしみちゃんキーホルダー”も、若い女の子を中心に大変人気を集めました。
私も来年はデビュー40周年です。40年もの間、皆さんに支えていただき、今日まで頑張って参りました。これからも皆様に元気、勇気を与えて、愛される歌を歌い続けたいと思います。これからますます、USENのご発展をお祈り申し上げます。天童よしみでした。
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<Kiroro 玉城千春>
USEN創業50周年おめでとうございます。Kiroroの玉城千春です。
KiroroとUSENの思い出はですね、「長い間」でKiroroがデビューしたんですが、1998年、全日本有線放送大賞最優秀新人賞をいただきました。この曲は、全国の放送局を回ってご挨拶をさせていただいた思い出があります。大阪で放送局に行った時、私たちの曲「長い間」をリクエストするお電話が鳴りまして、そのリクエストしてくれた方とお話をしました。凄く有難いなぁと、そして、聴きたいと思ってくれる人と直にお話が出来て、興奮した思い出があります。
Kiroroは今お休み中なんですが、私、玉城千春はソロ活動をすることになりまして、実は今、頑張って曲を製作中なんですけれども、10月にシングルを予定しています。そして、11月頃にアルバム発売を目標にして、今レコーディングを頑張っております。もう結婚もして、子どもも3人産んで沖縄で暮らしていたんですが、まだまだ歌いたいというか、新しく挑戦したい、自分の歌をもう一度ゼロから見直して曲作り音楽作り、そして音楽を楽しみたいという気持ちが湧き出てきて、今色んなことに挑戦しています。私は今34歳で、34歳から色んなことを挑戦し続けていて、全然遅くないなと思うんですが、USENさんも50周年ということで、これから先もお互い色んなことに挑戦していきましょう。そして私たちKiroroもそうなんですが、玉城千春もUSENでたくさん色んな曲を流せるように、流してもらえるように、いい曲をしっかり作っていけたらいいなと思っています。これからも頑張りますので、皆さん応援してください。
USENの益々のご発展をお祈りしています。おめでとうございます。
Kiroroの玉城千春でした。
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<水樹奈々>
USENをお聴きの皆さん、そしてベッキーさん、こんにちは水樹奈々です。この度USENさん50周年おめでとうございます。
水樹奈々は2002年から「a-FAN FAN 水樹奈々POWER GATE」(※USENC-26チャンネル)という番組をやらせていただいております。ほんとに、歌手デビューして間もない頃から、ずっとUSENさんにはお世話になっておりまして、2002年のこの「水樹奈々POWER GATE」という番組で、初めてひとりでラジオにてお喋りをする、しかも、1時間半の長い番組なんですよね!そこでお喋りをするということで、物凄く緊張していたことを今でも思い出します。全国の皆さんから毎回お手紙をいただきまして、たくさんの方に聴いていただけて、そして、たっぷり自分の曲についてだったり、色々なライヴでの思い出など、色々語らせていただけて、なかなか短い番組では経験できないようなことをたくさんやらせていただける番組で、凄くいつも楽しんでやらせていただいております。これからも、200回、500回、777回目指して、番組を更に盛り上げていければいいなと思います。
そして水樹奈々は、歌のほうも歌わせていただいておりますので、皆さんUSENへのリクエスト、宜しくお願いします。USENさんのますますのご発展をお祈りしております。
以上、水樹奈々でした。
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<ドリーム モーニング娘。 矢口真里>
USEN創業50周年おめでとうございます。ドリーム モーニング娘。の矢口真里です。USENさんはですね、デビュー当時から物凄くお世話になっております。一番思い出に残っているのは、USEN廻りをしたことですね。いろんな地方を廻らせていただいて、そこで「流してください。」と頼んで、ポスターをそこに貼らせていただくというのを、地道にコツコツとやりました。その後USENさんでたくさん流していただけるようになったということで、本当に有り難いなと、感謝の気持ちでいっぱいです。
2002年なんですけれども、私個人としては色々なユニットをやらせていただいていたので、曲続きでモーニング娘。、ミニモニ、タンポポとUSENで流れることがあって、これうちの会社の人が流してるんじゃないの!?と思うくらい、本当にたくさん流していただいた時期だったなと思います。それを当り前と思っちゃいけないなと思いながらも凄く嬉しくて、これがいつまでも続けばいいなと、その頃は願っておりました。(2002年に発売された)「ここにいるぜぇ!」という曲なんですけれども、ダンスは息が切れる程ハジケてる曲で、私としては個人的にすごく好きなので、2002年にいただいた最優秀エンターテインメント賞は本当に有り難いですね。賞をいただけるというのは、愛されているなという温かい気持ちでいっぱいになります。
今後もですね、私ソロとしてもまだまだ曲を出していきたいなと思っておりますし、そしてドリーム モーニング娘。として、この間アルバムを発売させていただいたので、皆さんその曲もぜひリクエストしていただけると嬉しいです。これからドリーム モーニング娘。はツアー等もありますので、ツアーに来ていただいた時に、この曲良い曲だなと思ったらリクエスト♪ということをおすすめしております。宜しくお願い致します。
これからまだまだUSENさんに流していただけるように、私も個人的に頑張っていきますので、創業50周年、60周年、70周年とこれからも応援し続けております。ということで、モーニング娘。いや(笑)、ドリーム モーニング娘。の矢口真里でした。
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<氷川きよし>
USENさん 50周年、大変おめでとうございます。氷川きよしです。
デビュー当時、USENの放送所にキャンペーンで廻らせていただいて、ご挨拶をさせていただくなど、大変支えていただき、良い思い出がたくさんあります。
コンビニや色々なお店に入って、自分の作品が流れてくると凄く嬉しいですし、また頑張って皆さんにリクエストしていただけるように、歌っていこうという気持ちにさせていただいております。取材などでもスタジオにUSENがありますと、スタッフの方にお願いして、マネージャーにお願いして、「自分の曲をリクエストしてきてもらってもいい?」ということを言ったりしますが、そこから流れる、取材しながらの自分の曲はなんか違った感じで聴かせてもらっております。USENから流れてくる曲で、励まされて元気になったりすると思うんです。僕の曲が流れて、皆さんにぜひ元気になっていただいて、笑顔になっていただきたいと思います。新しい氷川きよしの20枚目の新曲「情熱のマリアッチ」は、そんな思いを込めてリリースをさせていただいた作品です。ぜひ皆さんに、USENにリクエストしていただきたいと思います。
USENさん、100周年に向って、これからも氷川きよしをどうぞ宜しくお願い致します。これからも素敵な音楽、多くの方に流してください。宜しくお願い致します。ということで、氷川きよしでした。
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<KinKi Kids>
USEN創業50周年おめでとうございます。堂本光一(以下K)です。堂本剛(以下T)です。KinKi Kidsです。
K「50周年ということで、おめでたいことですね~。」
T「おめでたいですね~50周年。」
K「USENは、私にとっては何らかの取材をする現場とか、写真を撮っている時とかに流れているようなイメージがあります。」
T「そうですね、スタジオでよく流れますからね。」
K「KinKi Kidsでは、2004年にリリースした『KinKi Single Selection Ⅱ』というアルバムの中から、メドレーで色々やっていただいたとか。」
T「うん、我々が提案した楽曲を、USENさんでメドレータイプにして流していただくという、その案を出させていただいたのが初めて(の試み)だったそうなんですよね。」
K「「情熱」、「ボクの背中には羽根がある」、「薄荷キャンディー」、なんなら今ここで、このメドレーをやってもいいんですけどね。♪じょ~お~ね~つ~の羽があ~る、頑張る~よ、君だけ~♪」
T「(笑)あの~…」
K「はいっ!」
T「凄いですね。なるほど、メドレーというか、雑過ぎますね。」
K「お送りしました!今メドレーで。」
T「いやいや今、USEN(のチャンネルを)変えられた可能性があるんで、ちょっとこれはやめたい…」
K「すみません、本当に心からお詫びを申し上げます。」
T「申し上げてほしいところですけれど…。こういったKinKi Kidsがとったメドレーにして流すということを、他のアーティストの方もやってくださってるらしいですね。」
K「そうなんですか。」
T「我々もまたアルバムを制作したりするんで。」
K「そうですね!」
T「またぜひこの形をとらせていただけたらと思いますけど。」
K「リクエストしてくださる方々に本当に感謝しなければいけないし、USENが50周年というおめでたい中で、僕らもお世話になってるわけですから、今後も皆さんからリクエストをぜひしていただきたいと思います。」
T「はい、宜しくお願い申し上げます。」
K「どうかKinKi Kidsを見守っていただきたいなと思っております。というわけで、1曲KinKi Kidsから聴いていただきましょうか。」
T「そうですね。」
K「さきほどメドレーで歌わせていただきましたけれども…。」
T「歌ってないですし、メドレーでも何でもないですけどね。なんか文字読んだみたいな感じでしたけども。」
K「そうですか?残念ですね。」
T「あれがメドレーだったらライヴめっちゃ早く終わりますからね。秒で終わります。チケット代返せみたいな…(笑)」
K「はい、では1曲ちゃんと(笑)お届けしたいと思います。KinKi Kidsから「ね、がんばるよ」(ふたりで)聴いてください!」
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<SEAMO>
USEN創業50周年おめでとうございます。SEAMOと申します。
私、SEAMOとUSENさんと言いましたら、2006年にUSEN J-POP年間リクエストランキングで、僕の「マタアイマショウ」が1位を獲得させていただきました。USENさんで非常にたくさん曲を流してもらって、色んな方にSEAMOのことを知ってもらえて、それで今の自分があると言っても過言ではないような気がします。
「マタアイマショウ」の制作秘話といいますか、僕が一度シーモネーターとしてメジャーデビューしまして、それですぐレコード会社をクビになり、ほんと廃人のような生活をしていました。その時に女の子にもフラれてしまいまして、そのボロ雑巾のようになった自分の恋愛感を書いて歌にしたのが「マタアイマショウ」なんですけれども。当時はね、しみったれた曲なんで、わりとHIP HOP系の音って自分を大きくみせる音楽だったりするので、あんまり失恋的なものが前に出るような歌ってのは世の流れにはなくて。実はうちのレコード会社とか事務所のスタッフ間では「マタアイマショウ」があんまり人気なかったんですよ。デモ段階で「これ駄目だろ。」みたいな感じで。他にアップ・テンポな「Brotherhood」というカップリング曲があったんですけど、そっちをシングルにしないかという話もあったりして。それでリリースしてみたら、あれよあれよという間に色んな方に知られていって、僕もビックリしました。自分の歌が皆のものになっていく瞬間といいますか、例えば電車等に乗っていても、知らない女子高生の携帯から自分の歌が聞こえてきたりとか、そういう意味では凄く不思議な経験をさせてもらったというか、色んな方にググっと知ってもらえて、そういう経験をさせてくれた初めての楽曲が「マタアイマショウ」でしたね。
その「マタアイマショウ」をリリースした2006年なんですけど、いっきに周りの景色が変わっていって、ジェットコースターのようでしたね。テレビに出たりとか、大きなイベントに呼んでもらえたりとか、暮れには紅白歌合戦にも出させてもらったりとか、実感が湧く間もなくいっきに駆け抜けていったというのが正直な気持ちです。まさにそのキッカケを作ってくれたのがUSENさんなんじゃないかなと思いますし、たくさんの方が僕の「マタアイマショウ」をリクエストしてくれたってことなんじゃないかと思います。本当に有難いですね。
今後の抱負としましては、またUSENさんの年間リクエストランキングに上がるような楽曲を書いて、大きなそういうところにいきたいなという気持ちがあります。ただ、というよりまずは続けることかなと。USENさんも50年続いているということで、俺なんてまだ音楽をやり始めて20年いってないくらいなんですけれども、50年経ったら僕もお爺さんになってますけど、USENさんのそういう記録に追いつけるように、死ぬまで音楽に携わっていたいなという気持ちがありますので、これからも皆にリクエストしていただけるような、愛される楽曲を作っていきたいと思います。これからも一緒に頑張っていきましょう。以上、SEAMOでした。
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<EXILE NESMITH>
USEN創業50周年おめでとうございます。EXILEのNESMITHです。
50周年ということで、僕自身もこの仕事をやる前の高校生の時に、地元熊本でバイトをしていたんですけれども、そのバイト先でUSENさんのチャンネルを、今日は邦楽をかけようとか、今日は洋楽をかけようとか、毎日毎日選んでいました。また最新の曲をかけたり、懐かしい曲をかけたりと、色んなチャンネルを毎日バイト仲間と話をしながらかけて、バイトに励んでいたという思い出が残っています。その当時のことを今振り返って、本当に色んな曲を聴きながら働いていたなぁと、ひとつひとつのことを思い出せるくらい、音楽に対しての思い出があります。
そして、2009年当時の思い出ということなんですが、やはり僕にとっては、「EXILE GENERATION」を経て、EXILEに加入させていただいたことが、僕の転機でもあり、新しい自分の発見ができた出来事でもあり、僕の人生においても凄く大きな出来事だったんじゃないかなと思います。その当時のことを振り返ったら、やはり“初心忘るべからず”という、そういう気持ちになるような出来事だったと思います。そんな「EXILE GENERATION」を経て、一発目に発売した「Someday」という楽曲があるんですが、14人になったEXILEで初めて音楽番組でパフォーマンスさせていただきました。その頃は、自分が踊りを踊っているという不思議な感覚もありましたが、その時に感じたものが今の自分にも繋がっていたりとか、先ほど話した“初心忘るべからず”という気持ちにさせてくれる、そんな楽曲でもあるので、今でも大事に14人でパフォーマンスさせていただいております。
今後のEXILEとしましては、年末にドームツアーが控えています。ぜひ全国の方々と2011年の思い出を、楽しく最高なものを作りたいなと思いますので、いらっしゃる方は最高の思い出を一緒に作りましょう!先ほども話しましたが、音楽とUSENさんには僕自身もたくさんの思い出をいただいたので、これからも名曲や最新曲を流していただける事を期待しています。僕たちもいい楽曲を作っていきますので、一緒に頑張っていきましょう。EXILEのNESMITHでした。
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<中島美嘉>
USENさん、創業50周年おめでとうございます。中島美嘉です。
USENさんとの思い出と言えば、昨年リリースさせていただいた「一番綺麗な私を」が5週連続1位をいただけたことに、とっても驚き嬉しかった印象があります。私はどの曲でも皆さんが思い思いに聴いてくださったり、楽しんでいただければ嬉しいなと思いながら歌わせていただいているんですが、その中で、USEN J-POP年間総合ランキング1位の結果をいただいて、本当に嬉しい気持ちで一杯です。たくさん聴いてくださった皆様に、心から感謝しています。ありがとうございます。
この曲のPVでは、歌の主人公とその主人公の心の中を描いたんですけれども、心の中の切なくて息苦しく、けれども綺麗な思い出という女の子を表現したいと思い、実際深さ5mのプールに潜って、息苦しさのようなものを表現しました。潜って目を開けるのがすごく怖くて、息も続かないのでなかなか上手くいかなかったんですけれども、カメラに写ってないところでは、プロのダイバーさんが常に準備していてくれて、何かあったらすぐに助けてくれるという体制で、撮影を繰り返したのが凄く印象に残っています。凄く怖かったんですけれども、綺麗なPVが撮れたので私的には嬉しく思っております。当時のインタビューで、よくインタビュアーさんに「本当に潜ってるんですか?」なんて聞かれて「本当に潜ってます。」と答えたら、いつも凄く驚かれたのを覚えています。見ていただいた皆さんから良い評価をいただけて、厳しい撮影でしたがやった甲斐のある、綺麗で自分自身も満足できた映像ができあがりました。
私はいつも先のことは目標を決めずに、今を楽しむようにしているんですけれども、贅沢を言えば、これからも変わらず皆さんに良いものを届けていけたらなと思っております。USENさん、これからも宜しくお願いします。中島美嘉でした。
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<JUJU>
USEN創業50周年おめでとうございます。JUJUです。
USENと言うと、子どもの頃、すごくチャンネルがいっぱいある前から、私はUSENの傍で生きてきました。子どもの頃に色んなヒット曲を聴いたのもUSENだし、USENのリクエスト番号にかけては自分の聴きたい洋楽曲等をかけていただいたのもUSENだったりします。
そんなUSENで育ってきた私が、色んな曲で1位をいただき本当に嬉しい限りです。最近では「また明日...」が、2011年上半期USEN J-POP総合ランキングで1位をいただいたそうで、本当にありがとうございます。この曲は、色んな思いが交錯しながらのレコーディングだったので、この曲で1位をいただいたっていう事は凄く嬉しいです。
一番最初は「奇跡を望むなら...」という曲で1位をいただいたのがUSENの中では初めてだったんですが、「奇跡を望むなら...」も、奇跡って望んでみるもんだなぁっていうのを教えてくれた曲だし、その奇跡を望んでいるとUSENで1位になれるんだなというのを感じた曲だったりもします。やっぱり諦めずにいることの大切さというのを、この曲たちから教えられ、さらにUSENから教えられた気がします。
そんな私の2011年の思い出深い出来事というと、今丁度ツアーに出ていまして、そのツアーが私にとって、まだ始まったばかりですが、きっと2011年私の中で一番思い出に残る出来事になるんじゃないかなという気がしています。
更に今後の抱負は、1日でも多く、1日でも長く歌い続けることが私の人生の抱負です。そして、USENでかけてもらえる曲を多く作れたらいいなと思っております。そんなUSEN創業50周年、重ね重ねおめでとうございます。これからもUSENでかけていただけるように頑張っていくので、宜しくお願い致します。JUJUでした。
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<谷村新司(7月の番組パーソナリティ)>
谷村が12歳、中学1年生の時にスタートしたUSEN。その頃、僕も音楽を創ることに目覚め、音楽と共に今日まで生きてきましたが、日本全国に音楽を届けてくれるUSENさんという会社がいてくれて本当によかったと改めて思います。
「ひとりでも多くの方に歌を聴いてもらいたい、届けたい」というアーティストの想いと「いい歌であれば、有名だろうと無名だろうと応援して音楽を届けていく」というUSENさんのポリシー。
この初心を忘れずに、これからもお互いに頑張っていきましょう(笑顔)
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<つんく♂(8月の番組パーソナリティ)>
僕にとって有線放送というのはとても縁が深く、洋楽邦楽含めて僕の頭の中にメモリーされている音楽のたくさんはUSENで記憶したものが多いのです。
思えば小学生の頃から父親の働く市場では、常にUSENが流れていました。曜日や時間によって洋楽と邦楽が切り替わるのですが、当時の世相が反映されたものが僕の頭の中にどんどん入っていきました。なので、実はいまだに歌手名や曲のタイトルがわからないものがたくさんあります。それから22歳の時にプロデビューし、今度はUSENの放送所にシャ乱Qの売り込み電話をたくさんし、気がつけば「シングルベッド」、「ズルい女」が大ヒット。どちらの曲もUSENから火が点いたと言っても過言ではないでしょう。
そして、第28、29回全日本有線放送大賞を2年連続で受賞。
そして、また数年経って今度はプロデュースするモーニング娘。が新人賞受賞と、たくさんの御縁をいただいてきました。
―歌は世に連れ、世は歌に連れ― とは本当によく言ったもので、USENがあったから僕もたくさんのヒット作品に巡り合えたのだと思っています。この先もどうか世の中にたくさんの愛という音楽を届けるメディアであってください。僕も負けないような音楽をたくさん生みだしていく所存です!
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<ベッキー(9月の番組パーソナリティ)>
USENと言えば、街中やお店に音楽を流しているということで、とっても身近な存在です。「私の曲もこんなところで!」ということもよくあり、本当にいつもお世話になっています。
今回の番組では、私自身もこれまでに楽しんできたヒット曲を紹介できるということでとっても楽しみにしています!
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<北島三郎>
USENと言えば、何と言っても皆様方からのリクエストです。皆様からのご注文によって、私たちの歌を聴いていただけるという、私たちにとって最高に幸せな場所がUSENです。これからも宜しくお願いいたします。
簡単に50年と言いますが、その間に私たちの歌の世界も随分変わりました。世の中と同じように変わりましたが、私は日本の歌、『演歌』を一筋にやってきました。USENにとっても50年という月日は、大変なものだったろうと思います。心から「おめでとうございます。」と同時に、「お世話になってありがとうございます。」と申し上げたいです。
USENは「なくてはならないもの」です。故に50年続いていると思います。特に私たち歌い手にとって、大勢の皆様からリクエストをいただいて、自分の歌を愛していただけるという形態は、素晴らしいものだと思います。
これからも、もっともっと続けて欲しいし、あり続けて欲しいと思います。
歌い手にとっても、大変な励みになりますので、私ばかりでなく、歌の道を歩むすべての人が、「USENさん、ありがとう。」の気持ち、感謝で一杯だと思います。
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<千 昌夫>
その翌日から、毎日36ヵ所の有線放送所に電話して、「千 昌夫ですが今日も『星影のワルツ』を掛けてください。」とお願いしました。それを1年半ほど続けました。
すると、私が1日でも電話を休むと、レコードを掛けてくれる女性陣から「昨日は電話なかったけど、どうしたんですか?」と言っていただけるほど親しくなりました。
「星影のワルツ」は、大きな、大きなヒットに繋がりましたが、その方たちのバックアップがなかったら、有り得なかったと思います。
私、以前には有線放送所を廻ってキャンペーンした歌手は居なかったと思いますので、有線放送所廻りをした歌手は、私が最初だったと思います。
私が有線放送所廻りをしていることに、周りのタレントが気づいて、「本当に効果があるの?」と疑心半疑だったようでしたが、「星影のワルツ」がヒットした昭和43年から44年くらいには、確実に有線放送は注目されるメディアになっていたと思います。
今、USENも大きな放送所になっているようですが、私が挨拶に廻っていた時代の、「人間と人間の心の暖かさ」はぜひ持ち続けていただきたいと思います。
私も、ずーっと歌を歌っていきますので、USENも60周年、70周年、あるいは千年、続けていただきたいと思います。私も、千年も万年もということで、千昌夫という名前を遠藤実先生に付けていただきました。お互いに、がんばりましょう!
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<浜村 淳>
私は1968年から23年間、USENと読売テレビが一緒に作った『全日本有線放送大賞』の司会を務めました。宮田 輝アナウンサーがメインの司会、そして1曲1曲の歌の司会を、私が担当しました。
もともと歌の紹介は浜村が行うという発想がどこから来たかと申しますと、当時、日本レコード大賞、日本歌謡大賞などで賞を贈るのは、すべて東京のテレビ局でした。
関西ではただ1局、読売テレビで賞を贈る番組を行うと決まったときに、読売テレビがお考えになったのが、「大阪らしい特徴を出さなくてはならない」ということで、ついては「浜村さん、演歌のイントロに乗せて、七五調で紹介をしてもらえませんか?」という依頼が来ました。やったことがなかったので、はじめはお断りしましたが、資料を集め研究したところ、サイレント映画の活動弁士、西村小楽天さんが、活動弁士の口調である七五調で、美空ひばりさんの歌の司会を行ったという資料を見つけました。それを参考に、歌詞の中から物語となる言葉を選び出して繋ぎ、それをイントロに乗せて喋るという道が見え、学ばせてもらいました。
それを、実際に行ったところ、誰が一番喜んでくれたかと言うと、歌手の皆さんでした。「浜村さん、あれ古いねえ。でも恥じたらあかんよ。あれをやってくれていることで、僕らは非常に歌いやすい。」と、森 進一さんも、青江三奈さんも、内山田 洋とクールファイブの皆さんも、渡 哲也さんも、みんな喜んでくれました。それで自信を持ってやるようになったんです。
近年でも小林 旭さんが「昔の名前で出ています」で全日本有線放送大賞をとった思い出を話すときに、私が言った「おひとり、おひとり、十円玉に願いを込めてリクエストしてくださった」という言葉を引用してくださっていると聞いて、大変嬉しく思っています。
皆様も、おひとり、おひとり、手に十円玉を握り締め、演歌のリクエストもしてくださいますようお願いいたします。
本当に50周年おめでとうございました。
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<森 進一>
私が「盛り場ブルース」で第一回全日本有線放送大賞をいただいたのが、昭和43年のことですから、もう40年以上も前のことになります。
この賞は、もともとテレビの『11PM』の年末企画で『夜のレコード大賞』と言われていたものだったと記憶しています。
その「盛り場ブルース」は、私の恩師チャーリー石黒先生に、初めて作曲していただいた曲ですが、歌詞の中に全国各地の有名な盛り場の名前が出てくるということで、当時、私は、北は札幌から南は九州 博多まで、高度成長期でネオンきらめく各地の盛り場を、ギターを片手に、キャンペーンで廻ったものでした。
お陰様で、ホステスさんやお客さんが、有線放送にたくさんのリクエストをしてくださって、そこから大きなヒット曲になりました。まだデビュー2年目の曲でしたし、第一回全日本有線放送大賞の受賞は、大変光栄で、「がんばれよ!」と背中を押していただいたような気持ちになったことを覚えています。
私も今年歌手生活45年になりますが、これからもUSENファンの皆様をはじめ、多くの方に愛していただける歌を歌い続けたいと思っています。
USENの益々のご発展をお祈りしています。
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<五木ひろし>
改めて振り返りますと、思い出がたくさんあります。
私自身、昭和46年、五木ひろしとして「よこはま・たそがれ」でデビューしたときに、全日本有線放送大賞、銀賞をいただいたのがスタートでした。
当時は、『夜のレコード大賞』というタイトルで始められていた賞をいただいたということで、大変嬉しかったことを、はっきりと覚えています。そしてまた、当時は有線放送からヒットが生まれるという時代でもありました。ですから、五木ひろしとしてスタートする以前に、なかなか上手くいかない時代も、一生懸命有線放送所を廻り、自らリクエストをするということも、重ねておりました。
そして「よこはま・たそがれ」でも、僕自身もリクエストしたり、当時の有線放送所をいろいろ廻らせていただいたりしました。
有線放送所では、女性社員の方がリクエストを受けるところにキャンペーンに行って、直接リクエストの電話に出て、「私 五木ひろしです。リクエストありがとうございます」と言っていました。そしてリクエストがだんだん増えて、大きなヒットになりました。まさにUSENは、ヒット曲を生むということについて、本当に大きな歴史があったのではないかと思っています。
僕自身、五木ひろしとして40年間歩いてきましたが、USENさんとともに歩いてこられたという実感があります。思えば、五木ひろしとしてスタートした何年目かに、創業者、宇野さんの自宅にお伺いして、色々な話しをさせていただいて、音楽やUSENの話に花が咲いたことを思い出します。
50年という素晴らしい歴史を築かれて、これからも多くの音楽の好きな皆様に、音楽をたくさん届けていただければと思っています。また、それにふさわしい良い歌を一生懸命、頑張って歌っていきたいと思っています。
本当に50周年おめでとうございます。これからも頑張ってください。
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<森 昌子>
思えば私がまだ13歳だった、1972年に「せんせい」でデビューしたときから、有線放送をお聴きの皆様には、私の曲にたくさんのリクエストをいただき、心から感謝しています。デビューの年の、夜のレコード大賞では、そんなたくさんのリクエストの結果として、見事に新人賞をいただくこともできて、大変感激し、勇気付けられたことを覚えています。
また、「悲しみ本線日本海」のとき、佐渡に渡る佐渡汽船の乗船の時にこの曲を掛けてもらっていたので、本当によく新潟にお邪魔したのですが、その度に有線放送所も訪問させていただきました。だんだん有線放送所の皆さんが、私の顔を見ると、「また来てくれたの」と声を掛けてくださり、「どんどんレコード回すからね。「悲しみ本線日本海」頑張ろうね」と励ましてくださったりしたことを思い出します。
これからも、USENとともにヒット曲を生んで行きたいと思っています。
55周年、60周年に向けて、頑張ってください。
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<八代亜紀>
それまでは、売れない八代亜紀だったんですが、1973年に「なみだ恋」がUSENのベスト10に入ってきました。そしてテレビ局の方もラジオ局の方も、「USENでヒットして来たから、じゃあ使おうか」みたいな感じでしたから、USENには感謝で一杯です。
「なみだ恋」のキャンペーンでは、10円玉を大入り袋に入れて、それを全国のスナックのお客さんに「大入りです。大入りです。これでUSENリクエストお願いします」と言って配って廻りました。
その成果は本当に表れて、あちらこちらから1位という報告を聞きました。USENは努力の成果が本当に表れるところですよね。凄いと思ったのは、お客さんのひとりひとりが、公衆電話に10円を入れてリクエストしないとヒットしない、そこに愛情を感じました。皆さんの愛があることを感じました。
また、キャンペーンで全国色々なところに行くと、必ず有線放送所に挨拶に行くのですが、既にたくさんの方が訪問していて、色紙、ポスターがどこの有線放送所にも張ってあったことを覚えています。
USENからヒットすると、大ヒットという順番でした。これからもUSENというものは絶やさず、アナログという感じがするので、大切に守っていきたいと思います。八代亜紀も頑張りますので、USENの皆様も頑張りましょう。
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<宮路オサム>
USENとのお付き合いは長いですね。デビューとともに思い出が多いです。
「北の恋唄」でデビューして、各地に行くと必ずその街の、有線放送所にご挨拶に行きました。僕らが持っていったお土産のお菓子をつまみながら、リクエストを取る女性ひとり以外は皆でお茶を飲んで、いろんな話をしたことを覚えています。
次の週に気にして、その地区のチャートを見ると、ちゃんとベスト5や、ベスト3、1位に入っていたりしていましたので、USENをお聴きの皆さんはもちろん、モニターの女性たちにもお世話になりました。その年の年末には「北の恋唄」で、『夜のレコード大賞』新人賞もいただきました。
USENの方々とは思い出が多くて、モニターの方々に集まってもらってボーリング大会や茶話会を催したこともありました。面白かったのは、ホストクラブ大会。殿さまキングスの4人がホストになって皆さんをもてなした、そんな思い出もあります。
また、地方の有線放送所に行った時には、「マイクでご挨拶して」と言われて、新曲を掛ける前に「こんばんは、殿さまキングスです。○○の有線放送所にご挨拶に来ています。これから新曲聴いていただきます。よろしくお願いします」と言って新曲を掛けてもらうと、ジャンジャン電話が鳴って「いまの歌、いい歌だね」とか「USENの隣の隣のスナックだけど帰りに寄って飲んで行け」、「ご飯食べに来い」などの電話もありました。
当時、USENは演歌・歌謡曲でヒットするパーセンテージの半分以上を占めていました。「USENで来ないとダメだよ、演歌・歌謡曲は…。」と周りのスタッフもそんな思いでしたから、新曲を発売するとUSENの各地のチャートを、他の歌手も含めて、すごく気にしていました。
殿さまキングスのヒット曲は、USENとともに生きてきた、という感じですね。
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<都 はるみ>
本当にUSENにはお世話になりました。昭和51年の「北の宿から」では、グランプリをいただきました。すごく嬉しかったです。皆様がリクエストしてくださってグランプリを獲れるということは、自分の自信にもつながりましたし、あぁ、歌っていてよかったんだなぁと思いました。
それから「大阪しぐれ」でも特別賞をいただきまして、この時は本当に頑張りました。大阪有線放送(当時)のみなさんのところへ行った時に、「大阪しぐれ」は、なぜ北の方しか入っていないんだと、なぜ難波(南)の方は入れてくれなかったのか?など結構色々な意見をいただきました。
それを経て、昭和57年「ふたりの大阪」、これは思いっきり難波(南)の方を入れました。この曲も賞をいただきました。それから1年後の昭和58年には「浪花恋しぐれ」、これはグランプリをいただきました!この時は岡 千秋さんとのデュエット曲ですから、岡さんと1年近く一緒に歌ってきて、「本当にふたりでよかったね。」と言っていました。
皆様のリクエストの力があったからこそ、いただけた賞ばかりです。これからも皆様の力を信じています。だから、どんどんリクエストしてください。50周年本当におめでとうございます。これからも頑張ってください。都はるみでした。
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<西城秀樹>
演歌の方だけじゃなくて、ポップスの僕もUSENを廻っていましたよ。
USENはザ・ベストテンの順位に関わっているなど影響力が大きくて、USENのお姉さんに可愛いがられないと君はスターになれないと言われたほど。
「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を出して、この曲は残念ながら発売した時、皆さんに反対されたんです。ですから、USENのお姉さんに「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を気に入ってもらえなかったら、放送してもらえてなければ今日の私はなかったと言えます。
それから皆さんの記憶の中で、USENといったら演歌というイメージが強いと思うんですが、演歌だけでなくやはりPOPS、洋楽など、僕もUSENを導入したくらいですから、チャンネル数が多くて、当時は自宅でよく聴いていましたね。そしてリスナーのみなさん、もっともっとUSENを利用して、好きな音楽を色々な形で楽しんでみてはいかがでしょうか。以上、西城秀樹でした!
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<タケカワユキヒデ>
いやぁ、50年ですか、ビックリしちゃいますね。僕が58歳ですから、もう8歳の時にはあったんですね。
もう随分前になりますけど、30年くらい前だと思いますが、USENにキャンペーンでお邪魔したことがあります。たくさんの女性の方々が生で曲を流しているところを見て、「すごいな~」と思ったことがあります。僕が行ったら本当に喜んでくれて、普通は放送局に行っても「何しに来たの」みたいな雰囲気があって、喜んでもらえないんですけど、USENの方々には喜んでもらえたのが嬉しかったですね。
それが講じて、現在僕は、I-40チャンネル「昭和ちゃんねる」のパーソナリティをしています。面白いのでぜひ聴いてください!
僕はUSENをこれからも応援していきますし、色々な番組を期待していますので、一緒に頑張りたいと思います。頑張ってください!おめでとうございました。タケカワユキヒデでした。
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<小林幸子>
私の自宅は、USENをひいております。
自分の番組を聞いたり、他の方の番組も聞きますし、だいたいお昼はボサノバのチャンネルですかね。そして夜はジャズかな。朝はC-21ch(笑)。USENにまつわる思い出はたくさんありますけど、私が忘れることができないのは、昭和54年なんですが、私の「おもいで酒」がチャート1位をとり、その年の全日本有線大賞のグランプリを、「おもいで酒」が受賞させていただきました。
デビューして15年目にいただいたヒット曲なんですけど、それまでヒットとか1位とかはまるで他人事で、その年は毎日うれし涙ばっかり流していたような、そんな記憶があります。その昭和54年1月だったんですが、当時のプロダクションの方から連絡がありまして、「さっちゃん!USENで1位になったよ!」って言われて、私が「そんなわけないじゃない。」「いや、本当にそうなんだよ!」って言われて「そんなに信用しないんだったら、さっちゃん自分で放送所に電話をして聞いてごらん。」って言われたんで、電話をして聞いたんです。当時は「夢追い酒」がものすごくヒットしていたんで、それの間違いなんだろうな~と思って。なんとなく軽い気持ちで電話してみたんです。「もしもし、そちらのUSENで1位の曲ってなんて曲ですか?」って聞いたら、「1位の曲ですか?少々お待ちください。あ、おもいで酒です。」って言われてビックリして、その後私何を聞いたかって言うと、「すいません、誰が歌ってますか?」って聞いたんですよ。そしたらオペレーターの方が、不思議そうに「小林幸子さんです。」って言われた時には私自分の名前をもう一度聞き直してしまいました。「小林幸子ですか!?」って聞いて、「はい。」って言われて「ありがとうございました!」って電話を切ったんですね。切った瞬間にポ~っとして、私の名前だったよね・・・?私の「おもいで酒」だよね?え~!?!?
それからしばらくしてから、USENの1位だったことが色んなところで点として、関西エリアだけではなく、どんどん飛び火していったんですね。北海道とか九州とか。なんなんだこれはって、そうこうしているうちに点が線になって、線が立体になってきたんですよ。その時に初めて売れるとか、ヒットしているとか、リクエストがあるっていうのはこういうことなのかわかった、昭和54年はそんな年でした。「おもいで酒」はUSENに引っ張っていただいて、本当に大きくなった歌です。私にとっては有線放送がなくては、今の小林幸子は存在しないと言っていいほど。
あれから32年あっと言う間でしたが、新曲を出すたび応援していただいて、これからも皆さんにリクエストしてもらえる歌を作り、歌い続けていきたいと思います。そして、ますますのUSENの発展をお祈りしております。どうぞ頑張ってください。小林幸子でした。
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<近藤真彦>
僕は随分とUSENを利用させていただいております。家に友達が来たりする時は、今はマンションに住んでいるんですけれども、その前は一軒家に住んでいて、一軒家の応接間でしょ、お風呂場でしょ、サウナの中でしょ、そして1階の玄関にスピーカーを埋め込んで、それで応接間のスイッチで、全部どこで音が流れるか、操作できるようになっていまして、わりと僕はお風呂で聴いたりしました。それよりも何よりも面白いのは友達が来て、アジアン・テイストな料理を、みんなご馳走する時とか、他にもお店から買ってくる時にも、アジアン・テイストなチャンネルに変えてみたり、お正月に友達が来た時に「春の海」が流れているチャンネルにしてみたり、クリスマスはクリスマス・ヴァージョンにしてみたり、すごくその辺はUSENの色んなバリエーションがあって助かったのを覚えていますね。後は子どもができた時に、子ども用のCDを買う以前にね、何が好きか、よくわかんないんだけど、「USENで子どものチャンネルないかな…あ!あった、あったこれだよ!」ってパッとチャンネルを変えたら子ども向けの音楽がずっと流れててね、そういう意味ではすごく活用させていただいています。非常に便利に使わせていただいております。
僕は1981年、昭和56年ですね、全日本有線放送大賞の最優秀新人賞を「ギンギラギンにさりげなく」でいただいています。ここに“その当時のことを覚えていますか?”って書いているんですけれども、覚えてません(笑)。すいません。もう30年前の話ですからね、なかなか覚えてないのと、このUSENの最優秀新人賞だけではなく、もう本当に20個くらい最優秀新人賞を各地方放送局から、それこそレコード大賞、歌謡大賞の新人賞までいただいたということで、なんかみんなもらっちゃったんで、贅沢なんですけれども、あまり覚えていないんです。その「ギンギラギンにさりげなく」は、みなさんが知っている、僕にとってもすごく大切な曲になったんですけれども、この曲を出す時に、プロデューサーやディレクターたちが、『マッチが「スニーカーぶる~す」でデビューして、とにかくこの次の曲で新人賞を獲らなきゃいけないんだけど、近藤真彦らしく、ギンギラギンにさりげなく…』って言って、「おぉそれだよ!!」というふうになったのがね、このタイトルなんですよ。だから「ギンギラギンにさりげなくやろうよ」っていうことで、それがそのままタイトルになってしまって、本当に有名な曲になったんです。今でも「ギンギラギンにさりげなく」は、小さい子どもからゴルフ場のキャディのおばちゃんまで知っていて、この前もゴルフ行ったら、「私、大好きなんです!あの曲」って言うから、最近の曲かなぁと思ったら「ギンギラギンにさりげなく」っていう30年前の曲を言われて、ちょっとガックリきてしまいました。ということで、「ギンギラギンにさりげなく」で最優秀新人賞をいただきました。僕も去年デビュー30周年を迎えることができまして、今年31年目ですね、USENさんは50周年ということで、僕もUSENさんに負けないように50周年目指して頑張りたいと思います。これからも応援しています。一緒に頑張りましょう!近藤真彦でした。
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<鈴木雅之>
デビュー当時「ランナウェイ」が街の中で聞こえてきた時、凄く感動した覚えがあります。それはもちろん、USENから流れてきたものでした。
そして1983年の「め組のひと」の時に、全日本有線大賞の最優秀グループ賞をいただくことができました。この曲はシャネルズからRATS&STARに改名しての第一弾シングルでした。チャートでも1位になり、自分自身でもとても大事な楽曲の一つです。
更に1987年には鈴木聖美 with Rats & Starで、最優秀新人賞を「ロンリーチャップリン」で受賞することもできました。この頃はグループとは別に、鈴木雅之がソロとして走り出したばかりで、マイソウルお姉ちゃん鈴木聖美のプロデュースと、RATS&STARの活動で、ハードスケジュールの毎日でした。そんな中、私自身が作曲した曲ですから、受賞の時は感慨深いものがありました。「ロンリー・チャップリン」も今ではデュエットの定番として、カラオケでも愛され続けています。今年鈴木雅之はソロデビュー25周年。USENは50周年。これからも素敵な曲を届けていきましょう。USEN50周年本当におめでとうございます。鈴木雅之でした。
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<城之内早苗>
50周年ですもんね、ということは、私はソロ・デビューをして今年が25年なので、50周年の半分はガッツリお世話になってるんだなぁ・・・改めて、お世話になっております。
色々と資料を見せていただいた中で、1987年の会報誌を見て「えっ!」って驚いてしまったんですが、山瀬まみちゃんと私がUSENに行きまして、“1日体験モニター”というのをやった写真が掲載してあるんです。このモニターっていうのは、USENに電話をかけて、リクエストの応対に出てくれる女性の方のことなんですけど、その方々は、電話対応だけではなく、レコードがあるところに走るんですよ。それで「今から何分後におかけできますよ」など、そういう情報もくださる、それを1日だけ体験でやったんですよ。
リクエストすることは結構慣れている何でもないことないんですけど、受けるって大変だった。リクエストをする方のご機嫌もあるじゃないですか。ブスっとした方も、「よろしく~!」みたいな方もいらっしゃるし、それからモゴモゴ言う方や、ハッキリ言ってくださる方もいるので、そういう意味では私は素人なので、結構苦労しながらも、(こういう人たちのリクエストがあって、こうやって曲が流れるんだなぁ)と思ったことを覚えています。
それから、リクエストを受けるモニターさんは、私と同世代の若い女性の方々が圧倒的に多いんですよね。私はその皆さんと頻繁にボーリング大会をやりました。それで各有線放送所のエリアの方々が集まって、懇親会というか、わりと皆さん長くお勤めしているので、回を重ねていくと、結構プライベートな悩みとか、そんなことも打ち明けるようなそんな間柄になれたっていうのが、すごく楽しかった記憶がありますね。そういう間柄で「今度新曲が出るので宜しくお願いします」って電話をかけさせていただくんですね。すると「早苗ちゃん、今度の曲ってさぁ、こうだよね!あーだよね!いいよね!なんか違うよね。」とか忌憚ない意見を言ってくれるのもモニターさんでしたね。そういった意味で、私たち歌手にとって、USENのモニターさんや、USENそのものというのは本当に身近なところにあったんです。最近レコード屋が少なくなってきて、手に入れるのも難しくなった。かといってネットでダウンロードするっていうのも私世代ではちょっと、と思っちゃう。電話でリクエストしたらかけてもらえる、そんなシステムはずっと永遠に頑張って欲しいなと思います。私もUSENで1度でも2度でも多くかけてもらえるようないい曲を歌っていけるように、頑張っていきたいと思います。
ということで、これからもUSENさんには100年、200年周年に向けて頑張っていただきたいと思いますので、私たちも応援したいと思います。そして、引き続きお世話になります。どうぞ宜しくお願い致します。城之内早苗でした。
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<荻野目洋子>
私も新人時代に、各地のUSENさんにご挨拶周りに伺ったことを今でもよく覚えております。その時に女性の方たちが沢山並んでいらっしゃって、電話で受け付けている姿を見ていました。本当にたくさんの方のそういった力があって、リクエストをしてくださる方の力ももちろんなんですけれども、たくさんの人たちが関わって、皆さんの耳に音楽が届いていくんだなということを実感しました。
そういった中で、やはり自分の曲がリクエストされるのは本当に嬉しいことで、1986年当時、私は「六本木純情派」、「ダンシング・ヒーロー」などで、たくさんの方にお世話になりました。やっぱりどこへ行っても自分の曲が流れると、不思議な感じがするんですけれども、それだけ皆さんの支持があるということで、本当に素直に嬉しいなといつも噛み締めていました。
USENさん、これからも素晴らしい音楽をどんどん届けて、日本全体が元気で、音楽で溢れることを祈っています。これからも期待しています。荻野目洋子でした。
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<瀬川瑛子>
おかげさまで、私も来年デビュー45周年を迎えさせていただきます。
何か振り返ってみると、もちろん今もそうですけれども、USENさんと同じ歩みをさせていただいているんだなあと、感慨深いものがあります。
デビューした当時は、今よりもとっても多くのキャンペーンがありまして、日本全国の方々、北は北海道から、南は沖縄までキャンペーンをさせていただいておりました。レコード店さんの店頭で歌わせて頂いたり、スナックで歌わせて頂いたり、そのとき必ず、各地にあるUSENさんにお邪魔するのが、とても楽しみのひとつでした。
たまたま、「命くれない」が出る前にお邪魔したときに、あの~偶然、自分の歌が流れていたことがありまして、とっても喜んでおりましたら、そこに「どなたが歌っているんですか?」っていう、USENさんへのお電話の問い合わせとぶつかりまして、何か胸がキュンとうれしくなる想いが致しました。
歌い手というのがあの一所懸命自分の歌を一人でも多くの方々に聞いていただく、歌っていただくことが、何よりも嬉しいことですが、USENさんのおかげで、いろんなヒットが生まれたんじゃないかと思います。もちろん、私の歌の中にもそういうものがありますし、ほかの歌手の方にもたくさんあると思います。私たち歌手にとって、大切なUSEN。
思い出になりますけれども、昭和62年「命くれない」と出会いまして、自分でも驚くくらいのヒットとなりました。昭和最後のミリオンヒットと言っていただけるのもやはり、一回一回皆様がダイヤルして下さったUSENさんへのそしてUSENさんの方々も自発的にリクエストが無いときにもかけてくださった、そういうことが重なって私ども歌手の夢でございました全日本有線大賞のグランプリを頂きました。そのときは、3年連続でテレサ・テンさんがお取りになっていたときで、テレサ・テンさんから直接とてもあたたかいまなざしで、そして、さわやかに「瀬川さん、よかったですね。これからもがんばってください」と言われたことを、まるで本当にこの間のような、つい昨日のような思い出として残っています。天国に逝ってしまいましたが、そんな、テレサ・テンさんの楽曲も毎回毎回まだ、多くの皆様からリクエストがあるっていうことも歌の持つ魅力じゃないでしょうか。私も45周年に向けて、さらに頑張りたいと思っています。やはり一つ一つの歌で皆様がふと、あっと想いを止めて頂き、またリクエストにつながることが何よりもの私どもの幸せですので、私も精進、努力して参りますので、USENさんいつも、ご利用くださいます皆様も季節の変わり目などに、身体を壊されぬよう、そしていろいろなことが心配な事が起きているこの世の中を皆様と一緒に乗り切っていけたらいいと思います。
USENさん、そしてリクエストをくださる大切な皆様。これからもお互いに元気でいきたいですね。USENさん一緒にあるいていきましょう!
いつも本当にありがとうございます。瀬川瑛子でした。
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<吉 幾三>
USEN、名前は横文字になりましたけど、昔は漢字で有線放送だった訳ですが、大変お世話になりました。私がUSENで曲が流れるようになったのは、実は、吉 幾三になってからなんですね。山岡英二って名前をご存知ではないと思いますが、一応アイドルとしてデビューしていたんです。郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹の足元にも及ばずに、吉 幾三という名前に変えて、「俺はぜったい!プレスリー」から吉 幾三になったんです。その時は、レコード会社もとにかく「吉 幾三になったことを内緒にしろ」と、「山岡英二は捨てろ」と、改めて再デビューするつもりで頑張れと言われました。「え?誰にも言っちゃいけない?」。当時レコードジャケットがイラストでして、名前を変えてクラウンレコードだったんですが、レコード会社に行くと、宣伝マンの人たちが「おい山岡!青森からよ、吉 幾三ってデビューしたんだけど、お前知ってるか!?」って言われて、私は知ってるけど言えないから「え!そんなの出たの?」と答えました。そしたら「田舎のプレスリーって知らないのか!?」って言うから、「あ、知ってる知ってる!」「それが今出てるんだよ!」「え~!どんなやつなの?」って言ったら、「それがわからないんだよ。」って話になってですね、覆面歌手で吉 幾三になって、これがUSENで東北六県、確か北海道の函館から火が付いたと思うんですよ。その後「と・も・子・・・」という歌があって、それが東北六県と北海道全域のUSENで約半年間ず~っと1位だったんです。東京では今ひとつだった訳ですけれども…。USENには大変お世話になっておりまして、本当にたくさんの方のお耳に届いたかと思います。
「酒よ」に関しては、1988年だったと思いますが、全日本有線大賞において最優秀スター賞グランプリ賞を受賞したんです。もう「雪國」もそうですしね、私はUSENに貢献してるんですよ皆さん!貢献しているにも関わらず、50周年のお祝いのメッセージをって、この忙しい私をつかまえて、社員の方がここまで来ているものですから、それは喋らなきゃいけないということですね。
この「酒よ」はね、年末に、赤くて四角いポストにレインコートかけてお酒を飲んでいるお父さんが居たんですよ。「寒いんじゃないの?」って言ったら、「いいんだよ!大丈夫だよ!」って言われて、鹿児島の人だったか、熊本の人だったか、「正月は仕事で帰れないんだよ。もう何年も帰ってないんだよ。」って何かね、しんみりしながら話す話を聞いてね、「お前はどこだ?」って言うから、「俺は東北だ」って言ったら、「そうか。お前は帰るのか?」、「俺は正月帰るつもりだよ」って言ったら、「お前、毎年ちゃんと帰ってやれよ。大丈夫だよ。うちはすぐそこだから」って言われて、「お父さん、風邪ひかないようにな」って、その人とすれ違って、その翌年に「酒って色んな酒があるんだな」と思って、「酒よ」を書き始めたんですよね。この「酒よ」が最優秀スター賞グランプリ賞をいただいた時は、本当に嬉しかったですね。あの時、賞金か何かいただいたと思うんですけれども、多分一晩で飲んでしまったんでしょうな!(笑)
どうぞ、皆様これからも、どんどんUSENでリクエストしていただいて、そして色々な音楽を聴いて、心和やかになっていただきたいなと思っております。これからもUSENを応援しております。そして皆様が、レコードを買わなくてもUSENで聴いていただくことを期待しています。USENの方々、そしてこの場を借りて何ではございますが、岩手、青森、そして福島、宮城、今回被災された方々、大変ご苦労さんと思いますけども、とにかく焦らずに、前だけ見てゆっくりと復興に向けて頑張っていきましょう。私たちも少しずつそちらに伺うなど、応援していきますので頑張っていきましょう。大変でしょうけれどもお体に気をつけて、これからもUSENをどうぞ宜しくお願い致します。
USEN創業50周年おめでとうございます。吉幾三でした。
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<沢田知可子>
1990年に発売されました「会いたい」という歌。その「会いたい」の発売直後、中央競馬会、いわゆるJRAのCMソングが決まりまして、そのCMソングのプロモーションで一生懸命駆け巡っている頃に、なんと独り歩きで、それもUSEN放送の純粋なリクエストで、チャートが上がっていたのを覚えています。本当に夢のような1年でした。あの1991年、つい昨日のことのように、私は今も「会いたい」に感謝を込めて、そして今は、今を生きるための鎮魂歌として、大切に歌っています。
USEN50周年、これからも沢田知可子の「会いたい」と共に、沢田の歌をぜひぜひ見守ってやってくださいませ。
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<山根康広>
実はUSENと言うとですね、凄く思い出が沢山ありまして、まずUSENがなかったら、今の自分はなかったんじゃないかなというか、音楽をやっている自分がなかったような、それぐらいの感じなんですよね。
最初デビューした時は、インディーズに近いかたちで、自分でアルバムを作って、デビューはクラウンレコードからということで、レコード屋さんにはCDを多少置いてもらっていたんですけど、数えるくらいの大きいレコード屋さんだけでした。どこ行っても無い状態で。当時は俺、働いていたんです。サラリーマンをしておりまして、働きながら音楽をやってて、それで土日はライヴ以外に、デビューしたからということで、例えば街中で歌ったりとか、そういうことをしながらやっておりました。そこではテレビとかラジオに全くご縁がなかったんですけれども、USENでですね、放送局に行ったら1回かけてくれるんですよ。それでもし視聴者が気に入ったら電話がかかってきて、「今の曲なんですか?」みたいな問合せがある訳ですね。それが少しずつ増えてきて、色々なUSEN放送所に出向いてかけてもらいました。それで問合せが徐々に徐々に大阪を中心にリクエストに繋がっていって、1993年デビューなんですが、夏あたりまでかな、大阪でずーっと盛り上がっていてリクエストが増えてきてて、その後、東京でテレビに出ないかという話に繋がっていくキッカケになったのも、全てUSENですからね。凄いですよね。レコード屋さんでもかなり盛り上がってきてからですかね、貸しレコード屋さんで置いてもらえるようになって、それからやっと最後に普通のレコード屋さんでもCDを置いてもらえるようになったという思い出があります。USENの方には凄くお世話になっておりました。
ということで、これからも一緒に頑張っていきたいなと思いますので、ぜひぜひ宜しくお願いします。山根康広でした。
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<藤井フミヤ>
私が今年49歳になるので、僕が生まれるほんの1年前にUSENができたということになるんですね。USENはチェッカーズ時代から色々世話になったと思います。町中いたるところから音楽がかかる。例えばアーケードから、パチンコ店から、もちろんレストランから、いわゆるポップスであったりロックだったり演歌だったり、かかるようになったのはUSENのお陰だと思っております。
さて1993年に私のソロ・デビュー曲「TRUE LOVE」、これもUSENではかなりかけていただいたんではないかと思うのですが。「TRUE LOVE」は、僕がソロになって初めてひとりでやるということになったので、ちょっと作曲とかもやり始めないとマズいかなという感じで、生まれて初めての作詞・作曲の歌なんですね。この「TRUE LOVE」は非常に運のいい歌でして、ヒットするであろう小川がいっぱい流れていて、ひとつの大河のようになってヒット曲になりました。私もチェッカーズ解散して一発目のシングルというのもありましたし、ドラマの「あすなろ白書」の主題歌でもあり、そこに木村拓哉君も出演していましたし、色んな要素が折り重なってヒットが生まれたのではないかと思います。まぁ、藤井フミヤと言えば代表曲は「TRUE LOVE」でですね、結構、結婚式に呼ばれる度に歌ってくれと言われますね。人の結婚式で30回以上は歌ったのではないかと思います。そういう意味では、一応めでたい席で歌われる歌ということなんですね。このまま行くと私は死んで、出棺の時は「TRUE LOVE」が流れるのではないかという気がいたします。私が亡くなる時、ワイドショーではこのままでは「TRUE LOVE」だなという感じがしているので、出棺の曲を変えたいという想いがありまして、日夜、日々頑張っております(笑)
というわけで、これからも「TRUE LOVE」、皆さんが愛する曲であって欲しいなと思います。藤井フミヤでした。
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<レニー・クラヴィッツ>
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<PUFFY>
PUFFYはですね、1996年の全日本有線放送大賞で最優秀新人賞を受賞しました。
由美(以下 Y)「本当にありがたいことですよね。」
亜美(以下 A)「だってこれ知ってる?新人賞って獲れるのは一生に一度ですよ。獲れるチャンスがあるとすれば」
Y「因みに、別のグループを組んだら、またいけるってこと?」
A「まぁまぁ、もちろんそうですけど。あなた、喧嘩売ってるんですか?(笑)」
Y「いやいやいや・・・本当にすごい光栄なことですよね。」
ふたり「ありがとうございます。」
Y「あ、USENと言えば、関係ないかな?個人的に関係あることなんだけど、マンションにUSENが付いている子のうちに行ったことある?」
A「ない!マンションであるの?」
Y「あるんですよ。昔、思春期の時にお付き合いしていた人の家が、USENが入っているマンションで、ず~っと入り浸ってた。」
A「USEN聴きたくて?USEN大好きっ子!」
Y「うん。やっぱ思春期の時って、お小遣いがそんなにないから、CDを購入する予算がないけど、その子んちに行ったら、ウワァ!って聴けるから、すっごい行ってた!」
A「私はUSENってスタジオで流れてるイメージがすごいあるんだよね。主に、撮影スタジオ。」
Y「あ!流れてます、流れてます。」
A「それで色んなチャンネルが選べるじゃん?すごい画期的だなと思って。自分の好みの系列のチャンネルをさぁ。チャンネルもすごい多いでしょ、すごいと思ってたの。」
Y「大人になってからだね。(笑)」
A「だって、そんな子んち行ったことないもん。」
Y「ちょっと関係ない話ししちゃったけど、1996年に新人賞をいただいて、デビューの年で右も左もわからぬまま、色んな方々に応援していただいて、今年でPUFFYデビュー15周年ということで、これからも色々頑張っていきたいなと思いますので、ぜひひとりでも多くの方に応援していただけると嬉しいなと思いますよね。」
A「はい!本当です。皆様のお陰で新人賞もいただきまして、ありがとうございます。」
Y「ありがとうございます。何かあればね、すぐPUFFYでと・・・」
A「あ、リクエストいただいて、ぜひぜひ。」
Y「USENさん、今後とも宜しくお願いします。という訳で、USEN50周年ということで、これからも応援していますし、PUFFYのことをぜひ宜しくお願いします。」
A「一緒に頑張りましょうっていうか、頑張ってください私たちと。癒着で(笑)」
Y「はい、私たち一生懸命頑張ります。」
A「以上、PUFFYでした。」
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<天童よしみ>
私とUSENは、同じ歴史を作ってきたのでしょうか。思い出せば、私も長い下積みの時代、憧れのUSENに自分の曲が流れるようにと頑張ってきた日を、昨日のように思い出します。そんな時「珍島(チンド)物語」に出会い、この曲を携えて全国のUSEN放送所を訪ね歩き、レコードをかけていただきました。おかげさまで「珍島(チンド)物語」はミリオンセラーになりました。多くの方々に聴いていただき、毎日USEN放送から流れない日はなくなり、本当に嬉しかったです。そして遂に、韓国の珍島をはじめて訪れることができました。作詞・作曲の中山大三郎先生と、海割れを見て感動。思わず先生と手を繋ぎました。水のない海道を歩いたのも、懐かしい思い出です。そして1996年と言えば「珍島(チンド)物語」のヒットのお陰でたくさんの賞をいただき、私の“よしみちゃんキーホルダー”も、若い女の子を中心に大変人気を集めました。
私も来年はデビュー40周年です。40年もの間、皆さんに支えていただき、今日まで頑張って参りました。これからも皆様に元気、勇気を与えて、愛される歌を歌い続けたいと思います。これからますます、USENのご発展をお祈り申し上げます。天童よしみでした。
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<Kiroro 玉城千春>
KiroroとUSENの思い出はですね、「長い間」でKiroroがデビューしたんですが、1998年、全日本有線放送大賞最優秀新人賞をいただきました。この曲は、全国の放送局を回ってご挨拶をさせていただいた思い出があります。大阪で放送局に行った時、私たちの曲「長い間」をリクエストするお電話が鳴りまして、そのリクエストしてくれた方とお話をしました。凄く有難いなぁと、そして、聴きたいと思ってくれる人と直にお話が出来て、興奮した思い出があります。
Kiroroは今お休み中なんですが、私、玉城千春はソロ活動をすることになりまして、実は今、頑張って曲を製作中なんですけれども、10月にシングルを予定しています。そして、11月頃にアルバム発売を目標にして、今レコーディングを頑張っております。もう結婚もして、子どもも3人産んで沖縄で暮らしていたんですが、まだまだ歌いたいというか、新しく挑戦したい、自分の歌をもう一度ゼロから見直して曲作り音楽作り、そして音楽を楽しみたいという気持ちが湧き出てきて、今色んなことに挑戦しています。私は今34歳で、34歳から色んなことを挑戦し続けていて、全然遅くないなと思うんですが、USENさんも50周年ということで、これから先もお互い色んなことに挑戦していきましょう。そして私たちKiroroもそうなんですが、玉城千春もUSENでたくさん色んな曲を流せるように、流してもらえるように、いい曲をしっかり作っていけたらいいなと思っています。これからも頑張りますので、皆さん応援してください。
USENの益々のご発展をお祈りしています。おめでとうございます。
Kiroroの玉城千春でした。
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<水樹奈々>
水樹奈々は2002年から「a-FAN FAN 水樹奈々POWER GATE」(※USENC-26チャンネル)という番組をやらせていただいております。ほんとに、歌手デビューして間もない頃から、ずっとUSENさんにはお世話になっておりまして、2002年のこの「水樹奈々POWER GATE」という番組で、初めてひとりでラジオにてお喋りをする、しかも、1時間半の長い番組なんですよね!そこでお喋りをするということで、物凄く緊張していたことを今でも思い出します。全国の皆さんから毎回お手紙をいただきまして、たくさんの方に聴いていただけて、そして、たっぷり自分の曲についてだったり、色々なライヴでの思い出など、色々語らせていただけて、なかなか短い番組では経験できないようなことをたくさんやらせていただける番組で、凄くいつも楽しんでやらせていただいております。これからも、200回、500回、777回目指して、番組を更に盛り上げていければいいなと思います。
そして水樹奈々は、歌のほうも歌わせていただいておりますので、皆さんUSENへのリクエスト、宜しくお願いします。USENさんのますますのご発展をお祈りしております。
以上、水樹奈々でした。
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<ドリーム モーニング娘。 矢口真里>
2002年なんですけれども、私個人としては色々なユニットをやらせていただいていたので、曲続きでモーニング娘。、ミニモニ、タンポポとUSENで流れることがあって、これうちの会社の人が流してるんじゃないの!?と思うくらい、本当にたくさん流していただいた時期だったなと思います。それを当り前と思っちゃいけないなと思いながらも凄く嬉しくて、これがいつまでも続けばいいなと、その頃は願っておりました。(2002年に発売された)「ここにいるぜぇ!」という曲なんですけれども、ダンスは息が切れる程ハジケてる曲で、私としては個人的にすごく好きなので、2002年にいただいた最優秀エンターテインメント賞は本当に有り難いですね。賞をいただけるというのは、愛されているなという温かい気持ちでいっぱいになります。
今後もですね、私ソロとしてもまだまだ曲を出していきたいなと思っておりますし、そしてドリーム モーニング娘。として、この間アルバムを発売させていただいたので、皆さんその曲もぜひリクエストしていただけると嬉しいです。これからドリーム モーニング娘。はツアー等もありますので、ツアーに来ていただいた時に、この曲良い曲だなと思ったらリクエスト♪ということをおすすめしております。宜しくお願い致します。
これからまだまだUSENさんに流していただけるように、私も個人的に頑張っていきますので、創業50周年、60周年、70周年とこれからも応援し続けております。ということで、モーニング娘。いや(笑)、ドリーム モーニング娘。の矢口真里でした。
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<氷川きよし>
デビュー当時、USENの放送所にキャンペーンで廻らせていただいて、ご挨拶をさせていただくなど、大変支えていただき、良い思い出がたくさんあります。
コンビニや色々なお店に入って、自分の作品が流れてくると凄く嬉しいですし、また頑張って皆さんにリクエストしていただけるように、歌っていこうという気持ちにさせていただいております。取材などでもスタジオにUSENがありますと、スタッフの方にお願いして、マネージャーにお願いして、「自分の曲をリクエストしてきてもらってもいい?」ということを言ったりしますが、そこから流れる、取材しながらの自分の曲はなんか違った感じで聴かせてもらっております。USENから流れてくる曲で、励まされて元気になったりすると思うんです。僕の曲が流れて、皆さんにぜひ元気になっていただいて、笑顔になっていただきたいと思います。新しい氷川きよしの20枚目の新曲「情熱のマリアッチ」は、そんな思いを込めてリリースをさせていただいた作品です。ぜひ皆さんに、USENにリクエストしていただきたいと思います。
USENさん、100周年に向って、これからも氷川きよしをどうぞ宜しくお願い致します。これからも素敵な音楽、多くの方に流してください。宜しくお願い致します。ということで、氷川きよしでした。
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<KinKi Kids>
K「50周年ということで、おめでたいことですね~。」
T「おめでたいですね~50周年。」
K「USENは、私にとっては何らかの取材をする現場とか、写真を撮っている時とかに流れているようなイメージがあります。」
T「そうですね、スタジオでよく流れますからね。」
K「KinKi Kidsでは、2004年にリリースした『KinKi Single Selection Ⅱ』というアルバムの中から、メドレーで色々やっていただいたとか。」
T「うん、我々が提案した楽曲を、USENさんでメドレータイプにして流していただくという、その案を出させていただいたのが初めて(の試み)だったそうなんですよね。」
K「「情熱」、「ボクの背中には羽根がある」、「薄荷キャンディー」、なんなら今ここで、このメドレーをやってもいいんですけどね。♪じょ~お~ね~つ~の羽があ~る、頑張る~よ、君だけ~♪」
T「(笑)あの~…」
K「はいっ!」
T「凄いですね。なるほど、メドレーというか、雑過ぎますね。」
K「お送りしました!今メドレーで。」
T「いやいや今、USEN(のチャンネルを)変えられた可能性があるんで、ちょっとこれはやめたい…」
K「すみません、本当に心からお詫びを申し上げます。」
T「申し上げてほしいところですけれど…。こういったKinKi Kidsがとったメドレーにして流すということを、他のアーティストの方もやってくださってるらしいですね。」
K「そうなんですか。」
T「我々もまたアルバムを制作したりするんで。」
K「そうですね!」
T「またぜひこの形をとらせていただけたらと思いますけど。」
K「リクエストしてくださる方々に本当に感謝しなければいけないし、USENが50周年というおめでたい中で、僕らもお世話になってるわけですから、今後も皆さんからリクエストをぜひしていただきたいと思います。」
T「はい、宜しくお願い申し上げます。」
K「どうかKinKi Kidsを見守っていただきたいなと思っております。というわけで、1曲KinKi Kidsから聴いていただきましょうか。」
T「そうですね。」
K「さきほどメドレーで歌わせていただきましたけれども…。」
T「歌ってないですし、メドレーでも何でもないですけどね。なんか文字読んだみたいな感じでしたけども。」
K「そうですか?残念ですね。」
T「あれがメドレーだったらライヴめっちゃ早く終わりますからね。秒で終わります。チケット代返せみたいな…(笑)」
K「はい、では1曲ちゃんと(笑)お届けしたいと思います。KinKi Kidsから「ね、がんばるよ」(ふたりで)聴いてください!」
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<SEAMO>
私、SEAMOとUSENさんと言いましたら、2006年にUSEN J-POP年間リクエストランキングで、僕の「マタアイマショウ」が1位を獲得させていただきました。USENさんで非常にたくさん曲を流してもらって、色んな方にSEAMOのことを知ってもらえて、それで今の自分があると言っても過言ではないような気がします。
「マタアイマショウ」の制作秘話といいますか、僕が一度シーモネーターとしてメジャーデビューしまして、それですぐレコード会社をクビになり、ほんと廃人のような生活をしていました。その時に女の子にもフラれてしまいまして、そのボロ雑巾のようになった自分の恋愛感を書いて歌にしたのが「マタアイマショウ」なんですけれども。当時はね、しみったれた曲なんで、わりとHIP HOP系の音って自分を大きくみせる音楽だったりするので、あんまり失恋的なものが前に出るような歌ってのは世の流れにはなくて。実はうちのレコード会社とか事務所のスタッフ間では「マタアイマショウ」があんまり人気なかったんですよ。デモ段階で「これ駄目だろ。」みたいな感じで。他にアップ・テンポな「Brotherhood」というカップリング曲があったんですけど、そっちをシングルにしないかという話もあったりして。それでリリースしてみたら、あれよあれよという間に色んな方に知られていって、僕もビックリしました。自分の歌が皆のものになっていく瞬間といいますか、例えば電車等に乗っていても、知らない女子高生の携帯から自分の歌が聞こえてきたりとか、そういう意味では凄く不思議な経験をさせてもらったというか、色んな方にググっと知ってもらえて、そういう経験をさせてくれた初めての楽曲が「マタアイマショウ」でしたね。
その「マタアイマショウ」をリリースした2006年なんですけど、いっきに周りの景色が変わっていって、ジェットコースターのようでしたね。テレビに出たりとか、大きなイベントに呼んでもらえたりとか、暮れには紅白歌合戦にも出させてもらったりとか、実感が湧く間もなくいっきに駆け抜けていったというのが正直な気持ちです。まさにそのキッカケを作ってくれたのがUSENさんなんじゃないかなと思いますし、たくさんの方が僕の「マタアイマショウ」をリクエストしてくれたってことなんじゃないかと思います。本当に有難いですね。
今後の抱負としましては、またUSENさんの年間リクエストランキングに上がるような楽曲を書いて、大きなそういうところにいきたいなという気持ちがあります。ただ、というよりまずは続けることかなと。USENさんも50年続いているということで、俺なんてまだ音楽をやり始めて20年いってないくらいなんですけれども、50年経ったら僕もお爺さんになってますけど、USENさんのそういう記録に追いつけるように、死ぬまで音楽に携わっていたいなという気持ちがありますので、これからも皆にリクエストしていただけるような、愛される楽曲を作っていきたいと思います。これからも一緒に頑張っていきましょう。以上、SEAMOでした。
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<EXILE NESMITH>
50周年ということで、僕自身もこの仕事をやる前の高校生の時に、地元熊本でバイトをしていたんですけれども、そのバイト先でUSENさんのチャンネルを、今日は邦楽をかけようとか、今日は洋楽をかけようとか、毎日毎日選んでいました。また最新の曲をかけたり、懐かしい曲をかけたりと、色んなチャンネルを毎日バイト仲間と話をしながらかけて、バイトに励んでいたという思い出が残っています。その当時のことを今振り返って、本当に色んな曲を聴きながら働いていたなぁと、ひとつひとつのことを思い出せるくらい、音楽に対しての思い出があります。
そして、2009年当時の思い出ということなんですが、やはり僕にとっては、「EXILE GENERATION」を経て、EXILEに加入させていただいたことが、僕の転機でもあり、新しい自分の発見ができた出来事でもあり、僕の人生においても凄く大きな出来事だったんじゃないかなと思います。その当時のことを振り返ったら、やはり“初心忘るべからず”という、そういう気持ちになるような出来事だったと思います。そんな「EXILE GENERATION」を経て、一発目に発売した「Someday」という楽曲があるんですが、14人になったEXILEで初めて音楽番組でパフォーマンスさせていただきました。その頃は、自分が踊りを踊っているという不思議な感覚もありましたが、その時に感じたものが今の自分にも繋がっていたりとか、先ほど話した“初心忘るべからず”という気持ちにさせてくれる、そんな楽曲でもあるので、今でも大事に14人でパフォーマンスさせていただいております。
今後のEXILEとしましては、年末にドームツアーが控えています。ぜひ全国の方々と2011年の思い出を、楽しく最高なものを作りたいなと思いますので、いらっしゃる方は最高の思い出を一緒に作りましょう!先ほども話しましたが、音楽とUSENさんには僕自身もたくさんの思い出をいただいたので、これからも名曲や最新曲を流していただける事を期待しています。僕たちもいい楽曲を作っていきますので、一緒に頑張っていきましょう。EXILEのNESMITHでした。
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<中島美嘉>
USENさんとの思い出と言えば、昨年リリースさせていただいた「一番綺麗な私を」が5週連続1位をいただけたことに、とっても驚き嬉しかった印象があります。私はどの曲でも皆さんが思い思いに聴いてくださったり、楽しんでいただければ嬉しいなと思いながら歌わせていただいているんですが、その中で、USEN J-POP年間総合ランキング1位の結果をいただいて、本当に嬉しい気持ちで一杯です。たくさん聴いてくださった皆様に、心から感謝しています。ありがとうございます。
この曲のPVでは、歌の主人公とその主人公の心の中を描いたんですけれども、心の中の切なくて息苦しく、けれども綺麗な思い出という女の子を表現したいと思い、実際深さ5mのプールに潜って、息苦しさのようなものを表現しました。潜って目を開けるのがすごく怖くて、息も続かないのでなかなか上手くいかなかったんですけれども、カメラに写ってないところでは、プロのダイバーさんが常に準備していてくれて、何かあったらすぐに助けてくれるという体制で、撮影を繰り返したのが凄く印象に残っています。凄く怖かったんですけれども、綺麗なPVが撮れたので私的には嬉しく思っております。当時のインタビューで、よくインタビュアーさんに「本当に潜ってるんですか?」なんて聞かれて「本当に潜ってます。」と答えたら、いつも凄く驚かれたのを覚えています。見ていただいた皆さんから良い評価をいただけて、厳しい撮影でしたがやった甲斐のある、綺麗で自分自身も満足できた映像ができあがりました。
私はいつも先のことは目標を決めずに、今を楽しむようにしているんですけれども、贅沢を言えば、これからも変わらず皆さんに良いものを届けていけたらなと思っております。USENさん、これからも宜しくお願いします。中島美嘉でした。
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<JUJU>
USENと言うと、子どもの頃、すごくチャンネルがいっぱいある前から、私はUSENの傍で生きてきました。子どもの頃に色んなヒット曲を聴いたのもUSENだし、USENのリクエスト番号にかけては自分の聴きたい洋楽曲等をかけていただいたのもUSENだったりします。
そんなUSENで育ってきた私が、色んな曲で1位をいただき本当に嬉しい限りです。最近では「また明日...」が、2011年上半期USEN J-POP総合ランキングで1位をいただいたそうで、本当にありがとうございます。この曲は、色んな思いが交錯しながらのレコーディングだったので、この曲で1位をいただいたっていう事は凄く嬉しいです。
一番最初は「奇跡を望むなら...」という曲で1位をいただいたのがUSENの中では初めてだったんですが、「奇跡を望むなら...」も、奇跡って望んでみるもんだなぁっていうのを教えてくれた曲だし、その奇跡を望んでいるとUSENで1位になれるんだなというのを感じた曲だったりもします。やっぱり諦めずにいることの大切さというのを、この曲たちから教えられ、さらにUSENから教えられた気がします。
そんな私の2011年の思い出深い出来事というと、今丁度ツアーに出ていまして、そのツアーが私にとって、まだ始まったばかりですが、きっと2011年私の中で一番思い出に残る出来事になるんじゃないかなという気がしています。
更に今後の抱負は、1日でも多く、1日でも長く歌い続けることが私の人生の抱負です。そして、USENでかけてもらえる曲を多く作れたらいいなと思っております。そんなUSEN創業50周年、重ね重ねおめでとうございます。これからもUSENでかけていただけるように頑張っていくので、宜しくお願い致します。JUJUでした。
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